ルキウス・クィンクティウス・キンキンナトゥス
L. Quinctius L. f. L. n. Cincinnatus[1][2][3]
ギヨーム・ルイエ著 "Promptuarii Iconum Insigniorum" (1553) に描かれたキンキンナトゥス
出生不明
死没不明
出身階級パトリキ
氏族クィンクティウス氏族
官職補充執政官(紀元前460年)
独裁官(紀元前458年、439年)
指揮した戦争アルギドゥス山の戦い
ルキウス・クィンクティウス・キンキンナトゥス(ラテン語: Lucius Quinctius Cincinnatus, クィンティウス (Quintius)とも。生没年不詳、紀元前5世紀)は、共和政ローマ前期に登場する伝説的政務官。「キンキンナトゥス[4]」というあだ名は彼の特徴である巻き毛から名づけられ、古代ローマ人の美徳と武勇を現す人物として後世に長く伝えられた。なお古典ラテン語の発音では「キンキンナートゥス」。 彼の氏族は、王政ローマ時代、アルバ・ロンガの滅亡後に移住してきたという[5]。執政官 (コンスル) を六度務めたティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌス・バルバトゥスとは兄弟と考えられている。 紀元前461年、前年不成立だった護民官による執政官職権を制限するテレンティリウス法案が再提出されると、プレプスとパトリキは一触即発の事態となった[6]。そうした中、偉丈夫で知られたキンキンナトゥスの息子カエソ 紀元前460年に起こった内乱の鎮圧で執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラが戦死すると、12月に補充執政官として選出された[1]。プブリコラは混乱を鎮める為、プレプスたちにテレンティリウス法案の審理を内乱が終わるまで一時止めるよう説得しており、平穏が訪れるとまたも混乱が起こった。キンキンナトゥスは民会で演説して人々を叱責し、ウォルスキ族とアエクイ族に対しての軍事行動を示唆した。元老院は法案の年内提出の禁止と出征の取りやめを決め、執政官と護民官の再選にも難を示した。しかしながら護民官は再選され、パトリキたちは対抗してキンキンナトゥスの再選を目指したが、彼は規律に違反する事を良しとせず辞退した[10]。この彼の行いは、帝政ローマ初期にも高潔なものとして伝わっている[11]。 なお、シケリアのディオドロスによると、紀元前457年にもマルクス・ファビウス・ウィブラヌスと共に執政官を務めたことになっている[12]。 紀元前458年、ローマでは依然としてテレンティリウス法案を巡って争いが続いており、キンキンナトゥスの息子カエソの裁判での偽証も争点となっていた。更に前年和平を結んだアエクイ族がそれを破ってローマ周辺を荒らし、アルギドゥス山
経歴
一族
執政官
独裁官 Iフアン・アントニオ・リベーラ画、独裁官指名の使者を迎えるキンキンナトゥス (1806年)
しかし、サビニ人が大挙してローマへ押し寄せたため徴兵は実行され、執政官ナウティウス・ルティルスがサビニ領へ逆侵攻をかけた。もう一人の執政官ミヌキウス・エスクィリヌスはアルギドゥス山へ向かったもののやる気も戦果も乏しく、逆に包囲されてしまった。ナウティウスが呼び戻されたが、事態を重く見た元老院はキンキンナトゥスの独裁官選出を決めた。彼は自ら農作業を行っており、使者にトガを纏って拝聴するよう促され、独裁官 (ディクタトル)に指名された[14]。
彼は副官にルキウス・タルクィニウスを指名すると、国事停止の非常事態宣言を行い、兵士たちに杭と兵糧を持ってカンプス・マルティウスへ集結するよう命じた。そして執政官の危機を告げると強行軍でアルギドゥス山に向かい、その夜には到着した。キンキンナトゥスは現状を確認し、兵たちに喚声を上げつつ杭を打ち敵を包囲するよう命じると、包囲されているミヌキウスは勇気百倍して内側から反撃した。アエクイ軍は挟撃に慌て、包囲網が完成したため降伏し、指揮官と街一つを差し出す事で命を助けられた。その際、キンキンナトゥスは服従の証として三本の槍によって作られた軛の下をくぐるように求めたという[15]。
この勝利によって膨大な戦利品を得たが、キンキンナトゥスは苦境を招いた兵たちに分配しない事を告げ、ミヌキウスにもレガトゥスへと降格する事で責任を取らせたが、皆彼に感謝しており素直に従った。ローマの留守を預かる首都長官ファビウス・ウィブラヌスの呼びかけでキンキンナトゥスの凱旋式挙行が決定され、9月13日に行われている[16]。その後、彼は独裁官に任命されてから16日目にその職を辞したという[17]。こういった執政官の降格は、軍神マールスの導きから外れたことを詫びるために行われたと考えられている[18]。