ルキウス・アフラニウス
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ルキウス・アフラニウス
L. Afranius A. f.
出生不明
生地イタリア本土
死没紀元前46年
死没地アフリカ属州
出身階級プレブス
氏族アフラニウス氏族
官職法務官紀元前71年?)
前法務官(紀元前70年-69年
執政官紀元前60年
担当属州西方属州の何れか(紀元前70年-69年
指揮した戦争イレルダの戦い
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ルキウス・アフラニウス(ラテン語: Lucius Afranius、生年不明 - 紀元前46年)は紀元前1世紀初期・中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前60年執政官(コンスル)を務めた。
出自

ルキウス・アフラニウスは無名のプレブスであるアフラニウス氏族の出身である。父のプラエノーメン(第一名、個人名)がアウルスであることは分かっているが、最下級の出自であった[1]。同時代の人物であるキケロは友人であるティトゥス・ポンポニウス・アッティクス宛の書簡の中で、単に「アウルスの息子」と呼ぶことが多いが[2]、これはアフラニウスは祖父の名前すら分からず、著名な先祖がいないことに対して嘲笑していた可能性がある[3]
経歴
執政官就任まで

アフラニウスはその生涯を通じて、ポンペイウスの献身的な支持者であり、その出世はポンペイウスのおかげである。現存する資料の中で、アフラニウスに関する最初の言及は紀元前75年のものである。このときアフラニウスはポンペイウスの軍のレガトゥス(副司令官)として、ヒスパニアマリウス派クィントゥス・セルトリウスと戦った。スクロ川の戦いでは、ポンペイウス軍の左翼を指揮して、一時的に敵を圧倒するとができた。彼の兵士たちは敵の陣地に侵入したが、後にセルトリウスは状況を安定させることができた[4]。この戦いの結果は引き分けと考えられているが、ポンペイウス軍が敗北から免れたのは、ヒスパニア・ウルテリオル総督クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスの軍が到着したからであった[5]。その後、アフラニウスはカラグリス・ナッシカ・ユリアを長期間包囲した後に攻撃し、完全に破壊した[6](復興するのはカエサルアウグストゥスの時代)。

ある時点でアフラニウスはプラエトル(法務官)を務めたはずである。キケロの『ピソ弾劾』の中に、アフラニウスが属州総督を務め、ローマに帰還した後に凱旋式を実施したことが触れられている。これらが何時のことかは書かれていないが、セルトリウスの反乱が終わった紀元前72年から、アフラニウスが東方に出征した紀元前67年の間であろう。歴史学者は、法務官を務めたのは紀元前71年、属州総督は紀元前70年から紀元前69年と考えている。但し、凱旋式は属州総督の後ではなく、その前の紀元前70年に実施されたと推定されている。総督として赴任した属州は、ヒスパニア・ウルテリオルヒスパニア・キテリオルガリア・トランサルピナの何れかと思われる[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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