ルカ・ディ・モンテゼーモロ
Luca Cordero di Montezemolo
生誕 (1947-08-31) 1947年8月31日(76歳)
イタリア、ボローニャ
国籍 イタリア
出身校ローマ・ラ・サピエンツァ大学
コロンビア大学
肩書きアリタリア航空 前会長
フィアット 元会長
フェラーリ 元会長
1990年FIFAワールドカップ・イタリア大会元事務局長
配偶者Ludovica Andreoni(2000年から)
子供5
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ルカ・コルデーロ・ランツァ・マルケーゼ・ディ・モンテゼーモロ(Luca Cordero Lanza marchese di Montezemolo、1947年8月31日 - )は、イタリアの実業家。イタリアの航空会社、アリタリア航空の元会長[1]で自動車メーカーフェラーリの元会長。
「Montezemolo」は日本のマスメディアでは「モンテゼモロ」、「モンテゼモーロ」、「モンテーゼモロ」、「モンテツェモロ」などとも表記されるが、本来のイタリア語発音に準じ日本語表記した場合は「モンテゼーモロ」が一番近い。フェラーリ社内では「LDM」や弁護士を意味する「アッヴォカート(Avvocato)」と呼ばれる。 ボローニャ近郊でピエモンテ州貴族であるサヴォイア家と血縁関係のあるマッシモ・コルデーロ・デイ・マルケージ・ディ・モンテゼーモロと、外科医として有名なヴィンチェンツォ・ネーリの姪であるクロティルデ・ネーリの息子として生まれる。 叔父の、ジョルジョ・コルデーロ・デイ・マルケージ・ディ・モンテゼーモロは、第二次世界大戦にてイタリア海軍に所属し指揮官を務めた。祖父のマリオ、曽祖父のカルロは、どちらもイタリア軍において将官を務めた。 いとこの、アンドレア・コルデーロ・ランツァ・ディ・モンテゼーモロ
経歴
生い立ち
母親はルカが産まれた当時は未婚であり、私生児である。そのことや、顔つき、雰囲気が似ていると言われることもあり、その後フィアットで上司となるジャンニ・アニェッリ会長の「息子」との噂が立つこととなる。ローマ・ラ・サピエンツァ大学在学中にラリードライバーとして頭角を現すものの、家族の反対もありプロドライバーにはならずに終わった。 ローマ大学卒業後に弁護士を目指しアメリカのコロンビア大学に留学した後、1973年にエンツォ・フェラーリの招きで当時成績不振に陥っていたF1のスクーデリア・フェラーリのマネージャーとして加わる。その後チーム内の再編を行い、1975年にニキ・ラウダがドライバーズチャンピオンを獲得するなどチームを立て直す。1977年まで同職を務めた後、フェラーリの親会社であるフィアットの役員に就任する。 その後、ジャンニ・アニェッリ率いるフィアット社の役員職と、フィアット傘下の出版社やベルモット酒「チンザノ」の社長を兼務した。1990年に行われた1990 FIFAワールドカップの大会事務局長に就任し、大会を成功させる。 1991年にはエンツォ・フェラーリ亡き後のフェラーリに社長兼マネージングディレクターとして再度入社。F1チームの慢性的な成績不振を抱えていた上に、市販車部門においても技術開発や生産効率、品質に懸念を抱えていたフェラーリの建て直しに着手した。 スクーデリア・フェラーリに、ジャン・トッドをチーム監督に招聘したのを始め、ホンダF1の後藤治をエンジニアとして招聘するなど、必要な人材を確保。その結果、スクーデリア・フェラーリは1999年から2004年まで6年連続してコンストラクターズ・タイトル・チャンピオンに、ミハエル・シューマッハが2000年から2004年の5年連続でドライバーズ・チャンピオンを獲得した。 また、フェラーリの市販車の技術や品質も大きく改善させ、またその品質と扱い易さで高い評価を得た「F355」や「456」、「575マラネッロ」などを開発し、市場投入させた。これらのモデルにはセミオートマチックやオートエアコン、実用性の高い荷室など、これまでのフェラーリが持ちえなかった機能が用意されただけでなく、その製品品質や性能もそれまでのモデルに比べ大きく向上していた。 さらに、同じくフィアット傘下で高級スポーツカーメーカーとして有名なマセラティをフェラーリ傘下に収め、フェラーリとともに品質と性能の改善を行い、世界的な売り上げを急増させた。
フェラーリへ
FIFAワールドカップ・イタリア大会
再度フェラーリへ2003年にコンストラクターズ・チャンピオンになったF2003-GA