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出典検索?: "ルイ9世" フランス王
ルイ9世
Louis IX
フランス国王
ルイ9世(エル・グレコ画)
在位1226年 - 1270年
戴冠式1226年11月29日、ノートルダム大聖堂 (ランス)[1]
出生1214年4月25日
フランス王国
ポワシー
死去1270年8月25日(56歳没)
ハフス朝
チュニス
埋葬 フランス王国
サン=ドニ大聖堂
配偶者マルグリット・ド・プロヴァンス
子女後述
家名 カペー家
王朝カペー朝
父親ルイ8世
母親ブランシュ・ド・カスティーユ
宗教キリスト教カトリック教会
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聖ルイ9世
証聖者
列聖日1297年7月11日
列聖決定者ボニファティウス8世
記念日8月25日
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ルイ9世(Louis IX, 1214年4月25日 - 1270年8月25日[2])は、フランス王国カペー朝第9代の国王(在位:1226年 - 1270年)。ルイ8世とカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの子。死後、カトリック教会より列聖され、ここから、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。これは日本語では聖ルイあるいは聖王ルイと訳される。アメリカの都市、セントルイス(ミズーリ州)の地名の由来ともなった(セントルイスは、Saint-Louisを英語読みしたもの)。ブルボン家の先祖でもあり、同家の王の多くがルイを名乗るのも彼に由来すると思われる。同じく聖王と称されたカスティーリャ王フェルナンド3世は従兄。ルイ6世は高祖父、ルイ7世は曽祖父、ルイ10世とフィリップ5世とシャルル4世とフィリップ6世は曾孫、ジャン1世とジャン2世は玄孫、シャルル5世は来孫、シャルル6世は昆孫、シャルル7世は仍孫、ルイ11世とルイ12世は雲孫である。
内政に力を入れ長期の平和を保ったため、彼の治世の間、フランス王国は繁栄した。国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されている。ただ、宗教的情熱から2回の十字軍を行ったが、莫大な費用を費やし、自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わった挙句、陣没した。 1226年に父王ルイ8世の崩御により12歳で即位したが、母ブランシュの摂政下にあった。ブランシュは優れた政治手腕により、アルビジョア十字軍を継続し、諸侯の反乱を抑えた。 元々フランスの諸侯は独立性が強く、祖父フィリップ2世と父の時に抑えられていたが、幼君の下で反抗、陰謀、反乱などがしばしば起こった。1228年の諸侯の反乱では、一時、ルイ9世が捕らえられる危機にあったが、都市(コミューン)の市民の支援を受け、これを恐れた反乱諸侯は撤退した。1230年にブローニュ伯、サン=ポル伯などが、ブランシュと親しかったシャンパーニュ伯チボー4世を攻撃したが、この調停に成功している[3]。1235年にはチボー4世が親政を始めたルイ9世と対立し、反乱を起こしたが、これを鎮圧している。 1229年にトゥールーズ伯レーモン7世とパリ条約を締結し、アルビジョア十字軍を終結させ[4]、同年5月27日、サンスでプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の長女マルグリットと結婚し[5]、親政を始める。後にマルグリットの妹達はイングランド王ヘンリー3世、ルイの弟シチリア王シャルル・ダンジュー等と結婚する。「プロヴァンス4姉妹」を参照 ポワチエのラ・マルシェ伯ユーグ10世・ド・リュジニャンは、父ユーグ9世の元婚約者でイングランド王ジョンの未亡人だったイザベル・ダングレームと再婚していた。イザベラはイングランド王ヘンリー3世の母であり、イングランドでは王太后扱いを受けていた。しかし、ルイ9世の弟ポワチエ伯兼トゥールーズ伯アルフォンスへの「臣従の誓い」の際に単なる臣下の妻として扱われた為、これを侮辱だと激怒し、夫と息子ヘンリー3世を扇動して、1241年にポワチエで反乱を起こさせた。 しかし、ルイ9世が鎮圧を始めると配下の城は次々と降伏し、これを見たイングランド諸侯はヘンリー3世を見捨てて勝手に帰国した。ユーグ10世夫妻は降服したが、比較的寛大な条件で許されている。ヘンリー3世は大陸に所有していたガスコーニュを占領されたが、以前失っていたノルマンディーやアンジューを正式に放棄する代わりに、ガスコーニュの領有を認められるという寛大な条件で和解した。
生涯と統治
摂政時代
ポワチエの反乱