ルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポー
Louis-Marie de La Revelliere-Lepeaux
ルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポーの肖像、フランソワ・ボンヌヴィル
ルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポー(フランス語: Louis-Marie de La Revelliere-Lepeaux、1753年8月24日 - 1824年3月24日)は、フランス革命期の政治家。国民公会の代議士や総裁政府の総裁を務めた。 1753年、ジャン=バティスト・ド・ラ・ルヴェリエール
生涯
ラ・ルヴェリエール=レポーはルイ16世の処刑には賛成したが、過激派に全面的に同意したわけではなく、1793年にはジロンド派とともに追放された。テルミドール9日のクーデターまで隠れて生活した後、共和暦3年憲法の実施のための委員会に参加した。1795年7月には総裁政府の総裁に就任し、直後に公安委員会の委員にも就任した。当選した総裁のリストで首位に載ったため首班となった[1]。
総裁の中ではジャン=フランソワ・ルーベルと同盟し、ポール・バラスとも良好な関係を保ったが、ラザール・カルノーとの関係は劣悪であった。ラ・ルヴェリエール=レポーの政策はキリスト教への憎悪に満ちたものであり、彼はイギリスの理神論者デーヴィット・ウィリアムズ(英語版)による新宗教の敬神博愛教(英語版)を推進した。フリュクティドール18日のクーデターにおいて、ラ・ルヴェリエール=レポーはバラスとルーベルとともにクーデターを起こしたが、彼は自らの回想録において自分がクーデターの功労者であるように書いた[1]。
プレリアール30日のクーデター(フランス語版)で辞任を余儀なくされると隠棲し、10年後にパリへ戻るが、再び政治に関わることなく、1824年に死去した[1]。
脚注^ a b c d Chisholm 1911.