ルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポー
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ルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポー
Louis-Marie de La Revelliere-Lepeaux
ルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポーの肖像、フランソワ・ボンヌヴィル(フランス語版)作、1796年。フランス国立図書館所蔵。
生誕 (1753-08-24) 1753年8月24日
フランス王国モンテギュ
死没1824年3月24日(1824-03-24)(70歳)
フランス王国パリ
国籍フランス
職業法律家
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ルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポー(フランス語: Louis-Marie de La Revelliere-Lepeaux、1753年8月24日 - 1824年3月24日)は、フランス革命期の政治家国民公会の代議士や総裁政府の総裁を務めた。
生涯

1753年、ジャン=バティスト・ド・ラ・ルヴェリエールの子として、ポワトゥーモンテギュで生まれる。家族が所持する小さな領地からレポーの名前をとった。アンジェパリで法律を学んだあと、1775年に法曹界に入った。1789年の三部会で代議士として出席した後、アンジェへ戻ってメーヌ=エ=ロワール県の議会で働き、ヴァンデの反乱に対処した。1792年に国民公会へ戻り、同年11月19日に「自由のために戦っている諸国をフランスが保護する」という有名な勅令を提案した[1]

ラ・ルヴェリエール=レポーはルイ16世の処刑には賛成したが、過激派に全面的に同意したわけではなく、1793年にはジロンド派とともに追放された。テルミドール9日のクーデターまで隠れて生活した後、共和暦3年憲法の実施のための委員会に参加した。1795年7月には総裁政府の総裁に就任し、直後に公安委員会の委員にも就任した。当選した総裁のリストで首位に載ったため首班となった[1]

総裁の中ではジャン=フランソワ・ルーベルと同盟し、ポール・バラスとも良好な関係を保ったが、ラザール・カルノーとの関係は劣悪であった。ラ・ルヴェリエール=レポーの政策はキリスト教への憎悪に満ちたものであり、彼はイギリスの理神論者デーヴィット・ウィリアムズ(英語版)による新宗教の敬神博愛教(英語版)を推進した。フリュクティドール18日のクーデターにおいて、ラ・ルヴェリエール=レポーはバラスとルーベルとともにクーデターを起こしたが、彼は自らの回想録において自分がクーデターの功労者であるように書いた[1]

プレリアール30日のクーデター(フランス語版)で辞任を余儀なくされると隠棲し、10年後にパリへ戻るが、再び政治に関わることなく、1824年に死去した[1]
脚注^ a b c d Chisholm 1911.


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