この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "ルイ=ニコラ・ダヴー"
ルイ=ニコラ・ダヴー (Louis-Nicolas d'Avout/Davout, 1770年5月10日 - 1823年6月1日) は、ナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人・元帥。アウエルシュタット公、エックミュール大公の称号でも知られている。軍事面で「不敗のダヴー」と呼ばれるほど優秀であったほか、行政・管理能力でも優秀であった。
ルイ=ニコラ・ダヴー 下級貴族の軍人家系であるダヴー家に生まれ、祖父や父と同じく軍人となるべく育てられ、15歳でパリの陸軍士官学校に入校する。陸軍士官学校の1つ上にコルシカ人のナポリオーネ・ブオナパルテ(ナポレオン・ボナパルト)がいたが、特に親交を結んだといった逸話は残っていない。卒業後は祖父や父が在籍したこともある騎兵連隊に配属され、慎ましく軍歴を始めたが、ここでフランス革命が発生。無爵位とはいえ貴族であるにも拘らず、共和主義に賛同し、自ら駆け回って連隊内の共和派を組織して同僚の士官達と対立したが、王国軍の正規士官でありながら、このような行動を取ったことが大問題となり、逮捕投獄され、軍籍も剥奪される。しかし、政情の変化に助けられて、程なく軍籍に戻ることができた。 その後、各地を転戦する中で、次第に頭角を現し、若いながら優秀な指揮官として知られるようになる。同時に節を曲げない頑固者としても知られ、裏切りを図る上官を砲撃したり、逮捕しようと自ら司令部に乗り込んだりといった逸話も残っている。共和制に対する忠誠は揺るぎないものだったが、貴族出身という出自が災いすることも多く、1793年に少将[1][2][3]になった直後、貴族士官追放令に掛かって罷免され、軍から追放される。その後、約一年間郷里で軍事研究に没頭していたが、友人知人の助けもあって復職に成功。ドゼー将軍の指揮下に入り、公正無私にして有能さで知られた彼と親交を結ぶ。このことが大きな転機となった。 以後、六年にわたり、ドゼーの副将格として行動を共にすることになり、ドイツやイタリアを転戦、ドゼーがその親友ナポレオンに誘われてエジプト・シリア戦役に参加すると、共にエジプトで戦う。ここでドゼーからナポレオンに紹介され、以後、ナポレオンに絶対的な忠誠を誓うこととなった。マレンゴの戦いには従軍出来なかったため、ここで戦死したドゼーの最期に立ち会うことはできなかった。その後、友人だったルクレール将軍の妹と結婚。ルクレールがナポレオンの妹ポーリーヌを妻としていたため、その義弟という形となり、ナポレオンの側近の一人に数えられるようになる。 ダヴーは、その有能さと謹直な人柄でナポレオンの信頼を得、ナポレオンが帝位に就くと、元帥に任命される。当時34歳だったが、これは元帥中最も若い年齢だった。第三軍団を任されるようになると、その働きはますます冴え、アウステルリッツの戦いでは、常識外れの機動力で決定的な働きを見せ、アウエルシュタットの戦いでは、数において二倍以上のプロイセン王国軍を二倍の損害を与えて、撃破する離れ業を演じる。特にこの勝利はドイツ戦役そのものを決定づける大勝利であり、皇帝はその功績を 「貴軍団とその将兵たちに私の満足感を伝えてもらいたい。彼らこそ私の敬意と感謝の念を得る権利を永久に獲得したのである」 「かの元帥は不滅の武勇の、確固たる意志の、そして第一級の戦士たることの何たるかを体現してみせた」 と激賞し、ベルリン入城一番乗りの栄誉を与えた。 その後もポーランド戦役で活躍、ワルシャワ公国が設立されると、その総督となって腐敗官僚一掃に辣腕を振るい、対オーストリア戦ではエックミュールの戦い
Louis-Nicolas d'Avout/Davout
ダヴー元帥
渾名「不敗のダヴー」「鋼鉄の元帥」
生誕1770年5月10日
フランス王国、アヌー
死没1823年6月1日
フランス王国、パリ
所属組織フランス軍
軍歴1788年 - 1815年
最終階級帝国元帥
除隊後陸軍大臣
墓所ペール・ラシェーズ墓地
テンプレートを表示
生涯
貴族でありながら共和主義者
浮沈
ナポレオンとの出会い
鋼鉄の元帥
Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef