ルイーズ・ワイス
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ルイーズ・ワイス
Louise Weiss
サフラジェットらとともに女性参政権を訴えるルイーズ・ワイス (1935年5月 バスティーユ広場)
生誕 (1893-01-25) 1893年1月25日
フランス, アラス (パ=ド=カレー県)
死没 (1983-05-26) 1983年5月26日(90歳没)
フランス, マニー=レ=ザモー (イヴリーヌ県)
出身校オックスフォード大学
職業ジャーナリスト, 作家, 平和運動家, フェミニスト, 政治家
活動拠点『新欧州(フランス語版)』, 「新平和学校」, 「新しい女性」
肩書き欧州議会議員
親ポール・ルイ・ワイス(フランス語版)
栄誉レジオンドヌール勲章グラントフィシエ
公式サイト ⇒http://www.louise-weiss.org
(ルイーズ・ワイス財団)
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ルイーズ・ワイス (Louise Weiss; 1893年1月25日 - 1983年5月26日) は、フランスジャーナリスト作家平和運動家フェミニスト女性参政権運動家)、政治家欧州議会議員)であり、欧州平和への貢献により、ドイツ連邦共和国首相ヘルムート・シュミットに「欧州の祖母」と呼ばれ[1][2]レジオンドヌール勲章グラントフィシエを受けた。
背景

ルイーズ・ワイスは1893年1月25日、パ=ド=カレー県の県庁所在地アラスのブルジョワ家庭に生まれた。ルイーズ・ワイスは5人兄弟姉妹の長姉であった。共和派プロテスタントで建設省鉱山局の技師(後に視察官)であった父ポール・ルイ・ワイス(フランス語版)は、1867年、バ=ラン県サヴェルヌに近い小村プティット=ピエール(アルザス地方)に生まれた。一家は普仏戦争アルザス=ロレーヌドイツ帝国に併合されたときにフランス中央部に越した。ルイーズ・ワイスの母ジャンヌ・ジャヴァルはアルザスのユダヤ人家庭に生まれた。父エミール・ジャヴァル(フランス語版)は裕福な医師・政治家で、もともとドイツやチェコに定住したユダヤ人の家系である。ワイスがマルチリンガルで「欧州人」であろうとしたのはこうした背景による[3]
教育

1899年、一家はパリ16区ブローニュの森近くアンリ=マルタン大通り界隈に越した[4]。ワイスのフェミニズムとの出会いは、16区にあるリセ・モリエール在籍中にフランス語の教師であった小説家・アメリカ研究者のマリー・デュガール[5] を通じてであった。女性は高等教育を受けずに家庭に入るべきであると考えていた父の反対を押し切って、アグレガシオン(古典文学の教員一級資格、fr)を取得。さらにオックスフォード大学に1年間在籍し、同じく文学の学位を取得した。一方で、当時の多くの良家の子女と同様に、良妻賢母教育を受けるためにドイツのルイーゼ・フォン・バーデン大公女家政学校に学んだ[3]
平和運動
ジャーナリズム・新聞『新欧州』

まもなくジャーナリズム、特に国際関係に関心をもつようになった。直接のきっかけは、父ポール・ルイ・ワイスの元同僚で元老院議員・『急進派(フランス語版)』編集長のジュスタン・ペルショ(フランス語版)が彼に寄稿を求めたことであった。彼はこれを引き受け、ルイ・フランという偽名で政府の経済政策を批判する記事を次から次へと掲載した。当初、ルイーズ・ワイスはこの記事の校正を引き受けていたが、やがて匿名のまま父の代わりに記事を書くようになった[6]

第一次大戦中は、コート=デュ=ノール(現コート=ダルモール県)の野戦病院で負傷兵の看護にあたったが、戦争の惨状を目の当たりにしたワイスは、ジャーナリズムを「戦争に対する戦争をする」ための手段にしようと決意し、1918年1月12日、ジャーナリストのイアサント・フィルーズとともに週刊新聞『新欧州(フランス語版)』を創刊した。『新欧州』は主に国際政治を扱い、平和維持のための欧州諸国の和解を目的とする「フランス国内外で最大の政治新聞」を目指していた。ワイスは同紙にドイツとの講和、圧制に苦しむ人々の解放、国家間の平和を達成するための国際組織の樹立などを訴える記事を掲載し[3]1919年6月28日に調印されたヴェルサイユ条約はそれ自体として平和をもたらすものではなく、「壁に描かれた鳩が人間の殺し合いを阻止できる」と考えるのは「ナイーブな平和主義者だ」と批判した[7]

1919年にフィルーズと『新欧州』の編集方針について意見が合わなくなったワイスは、いったん同紙を離れ、日刊紙『ル・プティ・パリジャン(フランス語版)』の特派員としてプラハブダペストウィーンワルシャワなどの中欧の都市を訪れ、チェコスロバキアの独立運動を率いたトマーシュ・マサリクエドヴァルド・ベネシュミラン・シュテファーニクらに取材した。さらに1921年にはモスクワに派遣され、カール・ラデックレフ・カーメネフレフ・トロツキーらのボリシェヴィキの指導者に取材。このときには、ボリシェヴィキ革命(十月革命)後のソビエトに残っていたフランス人女性らの出国の手助けをした[8]

帰国後、フィルーズから『新欧州』を引き継ぎ、戦後、国民がナショナリズムに傾倒し、ドイツへの復讐心を強めていた状況にあって平和主義の重要性を訴えた。編集委員や寄稿者として、後に政界で重要な役割を担うことになるルイ・ジョックス(フランス語版)、アンリ・ド・ジュヴネル(フランス語版)、ヴラディミール・ドルメソン(フランス語版)、ジョルジュ・ボネ(フランス語版)、アリスティード・ブリアンエドゥアール・エリオ、マルセル・カシャン(フランス語版)、レオン・ブルムサン=ジョン・ペルスらのほか、ポール・ヴァレリー、エリー フォール(フランス語版)などが参加していた[7]
国際連盟

ワイスは国際連盟の有効性を信じていた。1924年10月にはエドゥアール・エリオ首相に同行し、国際連盟の第5回総会に参加した。この総会ではエリオ首相とイギリスのラムゼイ・マクドナルド首相が策定した国際紛争の平和的解決(仲裁裁判)に関するジュネーヴ議定書(フランス語版)が承認されたが(後にイギリスなどの批准がなされず、未発効に終わった)、このとき、エリオ首相は「カなき正義は無力であり、正義なき力は圧制である」というパスカルの言葉を引用し、仲裁裁判、安全、軍備制限を標語として掲げ、「今後、平和が乱されることはあってはならない。平和的解決が図れないような問題はあってはならない。一国の意思により、我々が経験したような大惨事が再び起こるようなことはあってはならない」と訴えた[7]。ワイスがアリスティード・ブリアン、レオン・ブルジョワジョゼフ・ポール=ボンクールに出会ったのもことときである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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