ルイーズ・ブルックス
Louise Brooks
本名Mary Louise Brooks
生年月日 (1906-11-14) 1906年11月14日
没年月日 (1985-08-08) 1985年8月8日(78歳没)
出生地 アメリカ合衆国、カンザス州、チェリーヴェイル
死没地 アメリカ合衆国、ニュー・ヨーク州、ロチェスター
活動期間1925?1938
配偶者A・エドワード・サザーランド (1926-1928)
ディーリング・デイヴィス (1933-1938)
テンプレートを表示
ルイーズ・ブルックス(Louise Brooks, 1906年11月14日 - 1985年8月8日)は、アメリカ合衆国カンザス州出身の女優、ダンサーである。フラッパーとボブ・カット
の時代を象徴するシンボルであった。ヨーロッパで製作された、G・W・パープスト監督の1929年『パンドラの箱』と『淪落の女の日記』、そして、アウグスト・ジェニーナ監督の1930年『ミス・ヨーロッパ』の、3本の映画でよく知られている。
ブルックスは、17本のサイレント映画と、8本のトーキーに出演した後、1938年に女優を引退した。
1982年に回想録『ハリウッドのルル』を出版し、その3年後の1985年に78歳で心臓発作を原因として亡くなった。 ルイーズ・ブルックスは、弁護士であるレオナード・ポーター・ブルックスを父として、マイラ・ルードを母として、カンザス州チェリーヴェイルに生まれた。父は子供たちの規律に厳しく、常に忙しくしていた。アーティスティックな母は、どんな悪さをする子供達にも、決然と対処しながら世話をしていた。母マイラは本や音楽を愛していて、子供達のために、最新のドビュッシーやラヴェルを演奏するような、才能のあるピアニストであった[1]。 ブルックスが9歳のときに、近所に住む知り合いの男によって性的虐待を受けた。この出来事はブルックスの私生活とその後のキャリアに大きな影響を与え、真の愛情を育てることが出来なかったと後日語っている。 この男は、私の性的な嗜好を形成するのに、多大な影響を及ぼしたはずです。素敵で、ソフトで、容易な人では、私にとって十分ではありませんでした。支配的な要素がなければならなかったのです[2]。 何年も後になって、ブルックスが母親に、この事件を打ち明けたが、「彼をそのように仕向けていた、ルイーズ自身にも過失があったはず」という母親の示唆を引き出しただけであった[3]。 そして、ブルックスが13歳のときに、一家はカンザス州で最も繁栄していたウィチタに引っ越した。 ブルックスは1922年に、L.A.に設立されたデニショーン・モダン・ダンス・カンパニー
初期のキャリア
在籍して2シーズン目に、1つの作品で、ショーンの相手役に抜擢されて、主演の待遇で出演することになった。 しかし、ブルックスとセント・デニスの間には個人的な衝突が常にあって、1924年にセント・デニスは突然ブルックスを一団から解雇し、他のメンバーの前で「私はあなたを退団させます。あなたは、自分の人生が銀のプレート(silver salver)に乗せられて、あなたに差し出されるべきだと思っているからです」と告げた[4]。この言葉「The Silver Salver」はブルックスに強い印象を与えて、1949年に計画されていた自伝的小説では、10章と最後の章のタイトルに使用されていたものだった[5]。
友人バーバラ・ベネット(ジョーン・ベネットとコンスタンス・ベネットの姉妹)の紹介で、ブルックスは、すぐに『George White's Scandals』のコーラス・ガールとして採用された。次に1925年版ブロードウェイのジーグフェルド・フォリーズで、主演のダンサーとして登場した。ブルックスのフォリーズでの出演によって、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオのプロデューサーであったウォルター・ウェンジャーに注目されて、1925年にスタジオと5年間の契約を結んだ[6]。
またブルックスは、映画『黄金狂時代』のプレミア上映のため滞在していたスターであったチャールズ・チャップリンと知り合って、この年の夏、2人は2ヶ月の間だけの特別な関係にあった[7]。 ブルックスは1925年にサイレント映画『或る乞食の話』でクレジットなしでのデビューを果たした。しかし、その後の数年間は、軽いコメディとフラッパーの映画で、アドルフ・マンジューやW・C・フィールズの相手役としてヒロインを演じていた。 1928年にハワード・ホークス監督の『港々に女あり』に出演して、ヨーロッパで注目された。この映画は2人組の相棒を主人公としたサイレント映画で、ブルックスの役は映画の中でも重要なものであった[8]。 初期のトーキーである、1928年の映画『人生の乞食』でブルックスは、欲望にとらわれていた養父を殺した、虐待を受けていた田舎の少女を演じた。その場にいたリチャード・アーレン
映画のキャリア
アメリカ映画
この頃までには、ブルックスは多くの有名人と交遊関係があった。ウィリアム・ランドルフ・ハーストとその愛人であったマリオン・デイヴィスの住むサン・シメオンの邸宅を定期的に訪問していて、デイヴィスの姪ペピ・レデラーとは親しい間柄だった。ブルックスの特徴的な髪型ボブ・カットは、新しい流行になって、同じようなヘアー・スタイルの映画スター、コリーン・ムーアと共に、多くの女性が髪形を真似てスタイリングする元となった[9]。
映画『人生の乞食』が製作された後に約束してあった、パラマウント映画でのキャリアの上昇がなかったため、ブルックスは、その背景を嫌っていたハリウッドでの滞在を拒否し、オーストリア出身で表現主義者の監督、G・W・パープストの元で映画を製作するため、ヨーロッパに去っていった。
パラマウント映画は、ブルックスに圧力をかけるために、サウンド・フィルムの導入を利用しようとしたが、ブルックスはこれを、スタジオのはったりと呼んでいた。この反抗的な言動は、キャリアの中でも間違いなく突き抜けて独立した精神を表していて、サイレント映画の伝説として、30年後にブルックスの不滅さを表象するようになった。
ドイツから帰国して、パラマウント映画への順当な復帰作であった、1929年の映画『カナリア殺人事件』での、音声の録音し直しを拒否したため、スタジオにとっては残念なことに、ブルックスの行為はハリウッドでのキャリアの完全な終了を意味したわけではないが、ブルックスの名前を非公式なブラックリストから外せなくさせた。スタジオはブルックスの声が、サウンド・フィルムには適さないと主張したために、女優マーガレット・リヴィングストンは、ブルックスの声を吹き替えるために採用された[10]。 ドイツでは、新即物主義時代のG・W・パープスト監督の、1929年の映画『パンドラの箱』に出演した。この映画はフランク・ヴェーデキントの2つの劇、『地霊』と『パンドラの箱』に基づいたもので、ブルックスはヒロインのルルを演じている。この映画は、最初のレズビアン描写を含むものとして、現代的な性的風俗の率直な扱いで注目に値するものであった[11]。 ブルックスはその後、同じパープスト監督による、マルガレーテ・ベーム 1931年にハリウッドに戻って、ブルックスは、『It Pays to Advertise』と『God's Gift to Women』の2本の映画に出演した。しかし、ほとんど注目されず、非公式のブラックリストに名前があったために、それ以降は出演依頼が途絶えていた。 『人生の乞食』の監督であったウィリアム・A・ウェルマンは、それでもジェームズ・キャグニーが主演する『民衆の敵』で、ブルックスにヒロインの役を提供しようとした。しかしブルックスは、恋人のジョージ・プレストン・マーシャルをニュー・ヨークで訪問するためにその役を断った[12]。代わりにジーン・ハーロウがこの役を演じたが、ブルックスの伝記作家バリー・パリスは、「『民衆の敵』に出演しなかったのは、ルイーズ・ブルックスにとって、映画のキャリアの本当の終わりになった」と述べている[13]。
ヨーロッパ映画
映画界からの引退