侯爵ルイージ・ドゥランド・デ・ラ・ペンネ (Il Marchese Luigi Durand de la Penne、1914年2月11日 - 1992年1月17日) は、イタリア海軍軍人。最終階級は海軍中将。ペンネは第二次世界大戦中、デチマ・マス(英語版)のフロッグマンとして人間魚雷マイアーレ(イタリア語版)を用いた特殊作戦に従事し、イギリス海軍の戦艦「ヴァリアント」を大破着底させた。
戦後もイタリア海軍で活動を続けたほか、イタリア共和国代議院(下院)議員も務めた。日本語文献では「デ・ラ・ペンネ伯」とも記載される[1]。 デ・ラ・ペンネは1914年2月11日にジェノヴァで生まれた。生家はイタリアと国境を接する現在のフランス・アルプ=マリティーム県にあるラ・ペンヌを領する貴族で、6代前のアレクサンドル・ジョセフ(1755年生、1816年没)が侯爵に叙せられている。 1934年10月にリヴォルノのサン・ジョルジョ航海学校で教育を受けた後、海軍兵学校に進学した。1935年に卒業後、少尉に任官して駆逐艦「フルミーネ」勤務となり、さらにラ・スペツィアの第6MAS戦隊に配属となった。1938年には中尉に昇進し、引き続きMAS部隊での活動を続けた[2]。 1940年8月22日、人間魚雷母艦として用いられていたペルラ級潜水艦「イリデ
経歴
沈没潜水艦救援制服着用のデ・ラ・ペンネ。
空襲は浅瀬での演習中に発生し、テセオ・テセイとデ・ラ・ペンネの士官2名を含む4名の人間魚雷分隊が周囲にいた。そのため、「イリデ」が沈むとすぐに救助活動を行うことができた。海底に沈んだ「イリデ」艦内で生き残っていた乗員12名のうち、2名は浮上に失敗して死亡し、9名は生きて救助され(うち2名は負傷により間もなく死亡)、1名はショックのあまり艦を離れることができなかった。デ・ラ・ペンネは彼を浮上させようとし、自身の呼吸装置さえ与えたが、結局その乗員は浮上を拒否して死んだ。 1940年10月30日には、ジブラルタルに在泊中のイギリス艦船を人間魚雷で攻撃するB.G.1作戦に参加した。デ・ラ・ペンネの人間魚雷を含む3艇が母艦である潜水艦「シーレ」から出撃した。しかし、デ・ラ・ペンネの艇を含む2艇が機関故障を起こしたため、乗員は艇を放棄して中立国スペインに上陸した。その後、デ・ラ・ペンネらはイタリアの工作員らの手助けを受けて本国に帰還した[3]。 残る1艇は作戦を続けたが、戦艦「バーラム」の近くまで接近したものの呼吸装置の故障によって到達できず、乗員は浮上して捕虜になった。作戦は失敗したものの、この経験は人間魚雷が敵軍港の近くまで潜入できる可能性を証明するものとなった[3]。デ・ラ・ペンネはこの任務で武勇銀勲章
ジブラルタル港攻撃
アレクサンドリア港攻撃詳細は「アレクサンドリア港攻撃」を参照
デ・ラ・ペンネは、イギリス海軍地中海艦隊の本拠地であるアレクサンドリア港(英語版)所在艦艇への人間魚雷攻撃(アレクサンドリア港攻撃)に参加した。1941年12月、彼は6名からなる攻撃隊の一員となった。攻撃隊は、マイアーレ221号艇(デ・ラ・ペンネとエミリオ・ビアンキ(イタリア語版)のペア)、マイアーレ222号艇(アントニオ・マルセリア(英語版)とスパルタコ・シェルガット(英語版)のペア)、マイアーレ223号艇(ヴィンセンツォ・マルテロッタ(英語版)とマリオ・マリーノ(英語版)のペア)から成った[2]。
彼らは湾内に潜入して機雷を仕掛け、戦艦「クイーン・エリザベス」と「ヴァリアント」、 油槽船「サゴナ」を着底させ、駆逐艦「ジャーヴィス」を大破させる戦果を挙げた[2]。潜水服を身に着けたデ・ラ・ペンネ。
デ・ラ・ペンネは母艦である潜水艦「シーレ」から発進したが、攻撃のため潜航中にペアのビアンキが酸素中毒で浮上せざるを得なくなった[4]。ブイに何とかしがみついたビアンキを残して一人攻撃を試みたが、単独ではマイアーレの機雷を「ヴァリアント」の艦底に取り付けるのは不可能であった。そこで、デ・ラ・ペンネは機雷を「ヴァリアント」の艦首下の海底に設置して退避した[5]。