ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアート
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ルイーザ・マリア・テレーザ
Louisa Maria Teresa
ステュアート家
イングランド王女ルイーザ、フランソワ・ド・トロワ画、1705年頃

出生 (1692-06-28) 1692年6月28日
フランス王国サン=ジェルマン=アン=レーサン=ジェルマン=アン=レー城
死去 (1712-04-18) 1712年4月18日(19歳没)
フランス王国サン=ジェルマン=アン=レーサン=ジェルマン=アン=レー城
埋葬 フランス王国パリ
家名ステュアート家
父親イングランド王ジェームズ2世
母親メアリー・オブ・モデナ
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ルイーザと兄のジェームズ王子、ニコラ・ド・ラルジリエール画、1695年ルイーザ王女、アレクシ・シモン・ベル画、1704年

ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアート(Louisa Maria Teresa Stuart, 1692年6月28日 - 1712年4月18日)は、イングランドスコットランド王家ステュアート家の廃位されたイングランド・スコットランド王ジェームズ2世(7世)の末娘で、ジャコバイト王位請求者ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(大僭称者)の同母妹。ジャコバイトにはプリンセス・ロイヤルとして扱われた。現在も活動するスコットランド人のジャコバイト支持派により「海の彼方の王女(Princess over the Water)」と呼ばれている[1][2]
出生

ジェームズ2世(7世)とその2番目の妻でモデナ公アルフォンソ4世の娘であるメアリー王妃の間の末娘として、両親の亡命先であるフランスサン=ジェルマン=アン=レー城で生まれた[3]。ジェームズ2世はルイーザの誕生に際して、王位を簒奪した娘メアリー2世のみならず、多くのプロテスタント信徒の貴婦人に手紙を書き、末娘の誕生に立ち会うよう求めた[4]。これは1688年カトリック信徒のメアリー王妃が息子のジェームズ・フランシス・エドワードの誕生の際に、実際は死産したのに別の赤ん坊を真鍮製のあんかに入れてベッドの中に潜り込ませ、王子に仕立て上げたという疑いをかけられたこと(これが名誉革命の引き金となった)を踏まえ、今回は予防線を張ったのである。

ホイッグ史観の代表的な歴史家マコーリー卿は、ジェームズ2世のこの用心深さについて以下のように叙述している。

もし国王がこうした幾人かの証人を1688年6月10日の朝にセント・ジェームズ宮殿に招いていれば、ステュアート家は今でも我々の住むこのブリテン島を治めていたかもしれない。だが王冠とは取り戻すよりも確保する方が簡単なものである。たしかに、この言い掛かり同然の作り話が革命の勃発に大きな役割を果たした可能性はあるだろう。しかしこの作り話に対する最も道理の通った反論ですら、ジェームズ王の復位をもたらすことは無かった。ジェームズ王の招きに応じて海峡を渡った貴婦人は一人もいなかった。王妃は無事に女児を出産したものの、この出来事がイングランドの公衆の感情に何らかの影響を与えることは無かった[5]

ルイーザの存命中の兄弟姉妹には同母兄のジェームズ王子の他に、グレートブリテン島に留まった2人の異母姉、メアリー2世とアン女王、父と共にフランスへ渡った異母兄ジェームズ・フィッツジェームズがいた。メアリー2世はルイーザが2歳の時に亡くなったが、アンは異母妹ルイーザに友好的な態度を示した[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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