ルイーザ・アダムズ
Louisa Adams
ルイーザ・アダムズ(1821年から1826年の間。ギルバート・スチュアートによる肖像画)
アメリカ合衆国のファーストレディ
任期
1825年3月4日 ? 1829年3月4日
前任者エリザベス・モンロー
個人情報
生誕 (1775-02-12) 1775年2月12日
グレートブリテン王国
ロンドン
死没 (1852-05-15) 1852年5月15日(77歳没)
アメリカ合衆国
ワシントンD.C.
配偶者ジョン・クインシー・アダムズ
子供ジョージ・ワシントン・アダムズ
ジョン・アダムズ2世
ルイーザ・キャサリン・ジョンソン・アダムズ(Louisa Catherine Johnson Adams , 1775年2月12日 - 1852年5月15日)は、第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クインシー・アダムズの夫人(アメリカ合衆国のファーストレディ)である。身長5フィート6インチ(約168cm)[1]。
生い立ち1794年頃にエドワード・サベージによって描かれた肖像画
1775年2月12日にイギリスのロンドンにてアメリカ人の商人ジョシュア・ジョンソン(1744-1802)とイギリス生まれの婦人キャサリン・ヌト・ジョンソン(1757-1811)の次女(姉1人・妹5人・弟1人)として生まれた[2]。ルイーザはアメリカ合衆国外で生まれた、初めてのファーストレディである[2][3]。ジョシュアの兄のトマス・ジョンソンは初代メリーランド州知事を務めた[2]。
一家は1777年にアメリカ独立戦争を支援するためにフランスのナントに移住した[4]。この地で教育を受けたルイーザはフランス語が堪能になり、彼女の第一言語になった[4]。ジョシュアが商人として働きながらロンドン駐在のアメリカ総領事も務めることになり、一家は1783年にイギリスに戻った[4]。ルイーザは1789年までイギリスの女子のための寄宿学校に通い、この学校で数学、哲学、刺繍、裁縫、描画などを学んだ[2]。ルイーザと彼女の姉妹たちも受ける機会を与えられた学校教育はジョシュアが展開していた事業が大損害を被ったために途中で終了した[5]。その代わりに1789年から1793年まで自宅で家庭教師による授業を受けた。ルイーザはこの頃から詩やエッセイを本格的に書くようになった[2]。
父ジョシュアはロンドンの自宅に多くのアメリカ人を招いて頻繁にパーティーを開いた。在蘭全権公使(英語版)を務めるジョン・クインシー・アダムズも1795年に一家を初めて訪れ、この時にルイーザと知り合った[5]。アダムズの母親のアビゲイル夫人はルイーザと結婚することによって息子の政治家としての前途に支障が出るのではないかと心配しており、アダムズ自身も結婚の前年の1796年に将来の妻に対して慎重であることの大切さや経済力の重要性を強調する批判的な手紙を何通も送っている[2]。 1797年7月26日にジョン・クインシー・アダムズとルイーザ・キャサリン・ジョンソンはロンドンで結婚式を挙げた。この年の3月にアダムズの父ジョン・アダムズは第2代アメリカ合衆国大統領に就任している。また、多額の借金を抱えていたルイーザの父ジョシュアは娘の結婚式の直前に彼の妻と他の子供達を連れてイギリスから逃亡している[2]。ルイーザは後年に自分の子供達に向けて書いた未発表の回想録において「彼が廃墟の一家と繋がりを持ってしまった」と述べ、申し訳ないと思う気持ちを吐露している[5]。海外勤務で多くの接待を自腹を切って行わなければならない外交官にとっては自分や妻の実家の資産がどのくらいあるかは重要な問題であり、この出来事は彼女を長年苦しませる引け目となってしまった[6]。 ルイーザはアダムズとの間に4人の子供をもうけた[2]。
結婚と家族
ジョージ・ワシントン・アダムズ(1801-1829) - 名前の通り、優秀な政治家であった祖父と父に次ぐ3代目の大統領職を目指すべく子供の頃から期待がかけられた。政治家の道を歩み始めたが、重圧からかある時からアヘンにはまり、アルコール依存症になり、借金も抱えるようになった。1829年4月29日に乗船していたニューヨーク行きの汽船『ベンジャミン・フランクリン』号がロングアイランド湾を通過している間に姿を消した。乗客が自分を狙っているという妄想に悩まされていたと言われている。6月初めに遺体が発見され、メイドのエリザ・ドルフとの間に婚外子をもうけていたことも判明した[7][8]。
ジョン・アダムズ2世
チャールズ・フランシス・アダムズ・シニア(1807-1886) - 長兄と同じく政治家の道を進み、合衆国下院議員も務めた。1848年の大統領選挙において自由土地党から副大統領候補として立候補したが、敗北した。