ルイ・ル・プランス
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ルイ・ル・プランス

生誕Louis Aime Augustin Le Prince
1841年8月28日
フランス王国メス
失踪1890年9月16日(49歳)
フランス共和国ディジョン
職業化学者技術者発明家映画製作者
配偶者エリザベス・ル・プランス・ホワイトリー
(1869年 - 1890年)
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ルイ・エメ・オーギュスタン・ル・プランス(Louis Aime Augustin Le Prince、1841年8月28日 - 1890年9月16日失踪)は、単レンズカメラを使い世界初の映画を撮影した発明家である[1][2]。1930年代から「映画の父」と呼ばれている[3]

フランス人だが、イギリスアメリカ合衆国で活動し、画期的な仕事を成し遂げた1888年にはイングランドリーズにいた。

1888年10月、(リーズの)ラウンドヘイの庭の場面とリーズ橋の場面 (Leeds Bridge) を単レンズカメラとイーストマンの紙フィルムを使い映像として撮影した[4]。これはリュミエール兄弟トーマス・エジソンといった他の発明家より数年早い。

1890年9月16日、列車の中から奇妙な失踪を遂げたため、アメリカで計画していた一般向けデモンストレーションを実施できなかった[1]。彼の身体と荷物は見つからなかったが、約1世紀後、警察の記録の中にル・プランスと思しき溺死体の写真が発見された[4]。ル・プランスが失踪したことが原因でトーマス・エジソンが映画の発明者と呼ばれるようになっていたが、現在ではル・プランスが「映画の父」と呼ばれ讃えられている。
忘れられた映画の発明者

欧米の映画史黎明期は、カメラの特許取得競争で彩られている。1888年、ル・プランスは映画用カメラと映写機を兼ねた16レンズ機器の特許をアメリカで取得した。単レンズ型機器 (MkI) の特許は先例があるとしてアメリカでは却下されたが、数年後トーマス・エジソンはほぼ同じ特許をアメリカで取得している。

1888年10月14日、改良した単レンズカメラ (MkII) を使って「ラウンドヘイの庭の場面」を撮影。妻の実家が営むホワイトリー工場とホワイトリー家で披露しているが、一般には公開しなかった。

翌年、その発明をさらに追求すべく家族と共にニューヨークに移住するため、アメリカの市民権も取得した。しかし1890年9月にニューヨークで予定していた一般公開は、失踪によって中止された。結果として、ル・プランスが映画の誕生に果たした貢献は忘れ去られてしまった。
生涯

「最後に一言。ル・プランス氏は非常に並外れた男でした。創意に富んだ才能はもちろんですが、彼は疑いもなく大きかった。身長6フィート3インチから4インチ(約190cm)で均整のとれた体つきで、優しくて思いやりがあり、発明家であっても人をいらだたせることのない穏やかな性格でした。」

?Declaration of Frederic Mason( ル・プランスの助手の1人で木工職人、April 21, 1931, American consulate of Bradford, Englandより)

生い立ち

1841年8月28日、フランスメスで生まれる[5][1][6]。父はフランス陸軍砲兵隊長で[7]レジオンドヌール勲章4等を受章している。父の友人で写真の先駆者であるルイ・ジャック・マンデ・ダゲールのスタジオに幼少のころから入り浸っていた[7]。そこでダゲールから写真や化学について教わり、またダゲレオタイプの被写体にもなっている。その後パリ絵画を学び、ライプツィヒ大学化学を学んだ[7]
成年後

1866年、大学時代の友人ジョン・ホワイトリーに招かれイギリスウェスト・ヨークシャーリーズに移住し[1]、ホワイトリー家が営む会社ホワイトリー・パートナーズに就職[8]真鍮製のバルブなどの部品を製造している会社である。1869年、ジョンの妹で才能ある芸術家でもあるエリザベスと結婚[1]。1871年、妻とともに応用芸術の専門学校 (Leeds Technical School of Art) を始め、写真を金属陶磁器に定着させて着色する技法で知られるようになる。

1881年、ホワイトリー・パートナーズの代理人としてアメリカ合衆国に行った[7]。フランス人芸術家たちの小グループのマネージャとなり、有名な戦のシーンなどを描いた大きなパノラマ (panorama) を制作してニューヨークワシントンD.C.シカゴで展示会を開催した[7][8]。このころ既に「動く」写真に関する実験を始めており、フィルムに最適な素材を探していた。

アメリカ滞在中に16個のレンズを使ったカメラを作り[8]、自身初の特許を取得した。これは動きを捉えることができるカメラだったが、16個のレンズが4×4の形で並んでいて連続的にシャッターを切ることで動画を撮影する方式であり、視点が移動するため映像は滑らかではなかった。リーズにある記念銘板

1887年5月にリーズに戻ると[8]、単レンズカメラを作り特許を出願。1888年10月14日に撮影した作品が「ラウンドヘイの庭の場面」であり、世界初の映画と言われている。その後、リーズ橋での路面電車や馬車や歩行者が行き交う様子を撮影している。これらの映画はリーズでスクリーン上に映写され、それが世界初の映画上映となった。
失踪

1890年9月、ル・プランスはアメリカでその新カメラを売り込む旅行をした後、イギリスに戻ろうとしていた。イギリスに戻る前に家族や友人に会うため、フランスに寄っている。9月13日にブールジュを発って、兄弟のいるディジョンに向かった。そして9月16日、列車でパリに向かったが、出迎えた友人たちの前に彼は現れなかった[9]。その後彼が家族や友人たちの前に現れることはなかった[1]。荷物も死体も列車内はもちろん、ディジョン-パリ間の線路周辺でも発見されなかった。ディジョン駅でル・プランスを見たと証言したのは彼の兄弟だけで、他に目撃者は見つからなかった。列車内での目撃者もおらず、不審な出来事に気付いた乗客もいなかった[9]


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