この項目では、オルレアン公にして7月王政でフランス王に即位した人物について説明しています。
当記事の祖父については「ルイ・フィリップ1世 (オルレアン公)」をご覧ください。
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ルイ=フィリップ1世
Louis-Philippe Ier
フランス国王
在位1830年8月9日 ? 1848年2月24日
別号アンドラ共同公
シャルトル公爵
ルイ・フィリップ1世(フランス語: Louis-Philippe Ier、1773年10月6日 - 1850年8月26日)は、オルレアン朝のフランス国王(在位: 1830年 - 1848年)。爵位はヴァロワ公爵、シャルトル公爵、ヌムール公爵、オルレアン公爵など。 ブルボン家の支流であるオルレアン家のルイ・フィリップ2世(フィリップ・エガリテ、フィリップ平等公)と、パンティエーヴル公爵ルイ・ジャン・マリーの娘ルイーズ・マリーの間の長男として、1773年10月6日にパレ・ロワイヤルで生まれた[1]。洗礼式の名親には国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが務めた[1]。フランスの文筆家で教育者のジャンリス夫人
生涯
生い立ち
1789年にフランス革命が勃発すると、父と同じく熱意をもって革命に参加、1790年にはまだ急進化していないジャコバン・クラブに入り、国民議会(1789年 ? 1791年)での弁論にも熱心だった[1]。シャルトル公はこのときにはすでに竜騎兵連隊の隊長だったが、1792年にフランス革命戦争が勃発すると中将としてフランス軍の北方軍(英語版)に配属された[1]。北方軍では同年9月20日のヴァルミーの戦いと11月6日のジュマップの戦いに参戦した[1]。この時期、本国では王政廃止が宣言され、フランス第一共和政が成立していたが、シャルトル公は父のオルレアン公とともに「エガリテ」(平等公)とあだ名されるほど共和制を熱烈に支持した[1]。しかし、父が国民公会でルイ16世の処刑に賛成票を投じたのに対し、シャルトル公はまだ19歳で被選挙権がなく、ルイ16世の処刑が決定されたときはシャルル・フランソワ・デュムリエの配下としてオランダに進軍していた[1]。
しかしデュムーリエ率いるフランス軍は1793年3月18日のネールウィンデンの戦いで敗北、デュムリエは共和政転覆のためにパリ進軍を謀り、シャルトル公もそれに同調した[1]。この裏切りに兵士たちが憤激し、デュムリエとシャルトル公は4月5日にオーストリア軍に逃げ込むことを余儀なくされた[1]。以降20年ほど外国を転々とした亡命生活がはじまった[1]。ひとまずは妹ルイーズ・マリー・アデライードとともにスイス(英語版)に行き、仮名を使ってライヒェナウ(英語版)で教師を数か月務めた[1]。