ルイ・ド・フュネス
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ルイ・ド・フュネス
Louis de Funes
1970年に撮影された写真
本名ルイ・ジェルマン・ダヴィッド・ド・フュネス・ド・ガラルザ
生年月日 (1914-07-31) 1914年7月31日
没年月日 (1983-01-27) 1983年1月27日(68歳没)
出生地クールブヴォア
死没地ナント
国籍
身長164cm
職業俳優
ジャンル喜劇
著名な家族イザベル・ド・フュネス
主な作品
ルイ・ド・フュネスのサントロペシリーズ
ファントマ』シリーズ

 受賞
セザール賞
名誉賞
1980年
その他の賞

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ルイ・ド・フュネス(Louis de Funes、1914年7月31日 クールブヴォア - 1983年1月27日 ナント、出生名ルイ・ジェルマン・ダヴィッド・ド・フュネス・ド・ガラルザ Louis Germain David de Funes de Galarza)[注釈 1]フランス喜劇俳優
人物

約140本もの映画に出演し、20世紀後半のフランス映画で最も有名な俳優の一人であるだけでなく、1960年代から1980年代初頭にかけてのフランス映画の興行収入の比類無き第一人者であり、2億7千万もの集客数を数えた[注釈 2]。幾つかの映画の脚本家、『守銭奴 L’Avare』(1980年)では共同監督も務めた。

彼の出演するほとんどの映画で共通する、低い身長でありながら大げさな身振りを伴って画面内を所狭しと動き回り、目上にはへつらいながら目下には厳しく叱るという彼特有のキャラクターは、典型的なフランスの喜劇役者として、フランスだけでなくヨーロッパをはじめ、中でもソビエト連邦で大きな成功を収めた[1]

ルイ・ド・フュネスのサントロペシリーズ[注釈 3](憲兵シリーズ)、『ファントマ』シリーズをはじめ、『大追跡[注釈 4]大進撃[注釈 5]ニューヨーク←→パリ大冒険[注釈 6]L'Aile ou la Cuisse(手羽先かモモ肉か)』[注釈 7]など多くのヒット映画を生み出した。またそれらのフランスにおける年間の興行収入は常にトップレベルを獲得し、1位を8回も得た。フェルナンデルブールヴィルジャン・ギャバンイヴ・モンタンコリューシュといった、喜劇のみならずフランスを代表する俳優とも多く共演した。

(本稿では日本公開されている映画および定まった日本語題が検索可能なものは可能な限り日本語題とその後に欧文原題を書き、日本未公開で日本語題未定のものは欧文原題の後に括弧付きで訳題を、日本語題が原題と大きく異なり尚且つ本文の都合上説明が必要な場合は日本語題と欧文原題の後に括弧付きで訳題を記す。映画以外の演劇や参考文献についてはこの限りではない)
来歴
生い立ち

カスティーリャ地方の没落した貴族の出身である[2]ルイ・ド・フュネスは、カルロス・ルイ・ド・フュネス・ド・ガラルザ(1971年マラガ - 1944年5月19日)[3]とレオノール・ソト・レグエラ(1878年1月21日オルティグエイラ - 1957年10月25日モンモランシー[注釈 8]の3番目の子供であり、1904年に父が母と結婚した後スペインから移住してきた。母方はその父がマドリッドで著名な弁護士であるブルジョアの家系であり、最初は彼らの結婚に反対していたが、最終的には多額の持参金を持たせて結婚を承認した[4]

2人の兄姉はマリー[注釈 9] と、シャルル[注釈 10]である。シャルルはフランス軍第152小隊の兵士としてドイツ軍の機関銃によって戦死した[4]

不思議な性格で、フランスに来てからは弁護士の仕事を続けられなかった父は、突然ダイアモンド職人になった後「仕事が発展する事を願って」ベネズエラに旅立ち[5]、そこで結核にかかって1934年にスペインで孤独死した。それに対して母は、ルイの喜劇の最初の先生となった。

母は「そうりゃ、捕まえるじゃのう」と(スペイン語訛りで)叫びながらテーブルの周りを回って私を追いかけた。このような振る舞いから、彼女は無意識のうちに役者としての天分を持っていたのだ[6]。--ルイ・ド・フュネス 『ド・フュネスとド・フュネス de Funes et de Funes』2005年、p. 38

彼女はまた、彼が5歳の時に最初のピアノのレッスンを教えた[7]。幼きルイはその少年時代のすべてを、彼の通ったジュール・フェリー学校のあるヴィリエ=シュル=マルヌ(セーヌ=エ=オワーズ県)で過ごした。

1930年、16歳の時、パリ9区のコンドルセ高校での学業が半ばにさしかかった頃、革職人となっていた兄の勧めにより、バスティーユ広場の近くにある皮革専門学校に入学したが、教師へのヤジを咎められて退学となった。それから幾つかの製革所で様々な技術を身につけたがことごとく首となり、また職業労働に対して怠慢だったため、両親は1932年に彼を自宅から徒歩圏内の写真映画学校に入学させ、そこで彼は映画科を選択した[8]。クラスには、ずっとのちに彼の様々な映画の撮影カメラマンとなるアンリ・ドカエがいた。

ルイ・ド・フュネスはあまり外向的なタイプではなかった。のちに毎回新しい映画でお互い会う度に、彼は決まって20年や30年前の写真映画学校での冗談「チオ硫酸ナトリウムソーダ」(写真の定着剤に使われる化学薬品)を私に叫んで笑うのだった。それは先生が我々にその薬品の特性を教えるときの強い口調のものまねであり、我々の間の共通の冗談であった[9]。--アンリ・ドカエ 『カーネル Kernel』2004年、p. 184

最終的に、彼は故意の火事によって退学させられる[10]。職を見つけてはすぐに首にされ失業者となる繰り返しの生活が始まった[11]。「高等教育を放棄した後、私の父はあらゆる小さな仕事をやった。彼は家の中ではその事を一切語らなかったので、インタビューでその事を語っているのは多少の脚色があるかもしれない」と、息子のオリヴィエ・ド・フュネスは語っている[11]

1936年4月27日、サンテティエンヌでジェルメーヌ=ルイズ=エロディ・カロワイエ(1915年3月7日パリ - 2011年9月28日クレルモン)と最初の結婚をする。1937年7月12日には長男ダニエル=シャルル=ルイが生まれるが、既に3年後に夫婦は別居状態となり、1942年になってやっと正式な離婚をする[12]。ダニエルの息子、ルイ・ド・・フュネスの孫には、2016年現在俳優のローラン・ド・フュネスがいる。

パリ占領時代、彼は小さな仕事(ショーウィンドーのデザイナー、靴磨き、郵便の糊付け人など)を転々としたのち[13]。バーのピアニストとなり、そこでエディ・バークレーと出会う[注釈 11]。「ルイ・ド・フュネスは、私と同じように楽譜を読むのは得意でなかったが、耳は良かった。彼は素晴らしい音楽家だった。役者である事は語らなかった。」[14]彼は夜中まで12時間に及び様々なハコで演奏し、そのギャラとレッスン料で小さなるつぼの家賃を払って貧窮な生活を立てていた[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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