ルイ・ド・ギュイエンヌ
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ルイ・ド・フランス
Louis de France
フランスドーファン

在位1401年 - 1415年

称号ギュイエンヌ(アキテーヌ)公
出生 (1397-01-22) 1397年1月22日

死去 (1415-12-18) 1415年12月18日(18歳没)
フランス王国パリ
埋葬 フランス王国ノートルダム大聖堂
配偶者マルグリット・ド・ブルゴーニュ
父親フランスシャルル6世
母親イザボー・ド・バヴィエール
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ルイ・ド・フランス(フランス語: Louis de France)またはルイ・ド・ギュイエンヌ(フランス語: Louis de Guyenne, 1397年1月22日 - 1415年12月18日)は、フランスの王太子(ドーファン)。フランス王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの三男。姉にイングランド王リチャード2世およびオルレアン公シャルルの妃イザベルブルターニュ公ジャン5世ジャンヌブルゴーニュ公フィリップ3世ミシェル、妹にイングランド王ヘンリー5世カトリーヌ、弟にトゥーレーヌ公ジャン、フランス王シャルル7世がいる。

シャルル6世はシャルル7世を含めて5人の息子を王太子に立てたが、ルイは3人目の王太子である。ただし、ルイの兄である最初の2人の王太子(いずれもシャルルと名付けられた)は共に幼少時に死亡している(1386年、1392年 - 1401年)。ルイはまたギュイエンヌアキテーヌ)公にも叙せられていた。
生涯

1403年1月に大叔父に当たるブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)の意向でルイと豪胆公の孫娘でヌヴェール伯ジャン(後のジャン1世、無怖公)の娘マルグリットとの婚約が決定、同時にルイの姉ミシェルとマルグリットの弟フィリップ(後のフィリップ3世、善良公)も婚約させられた[1]

父が発狂して統治不能になると叔父のオルレアン公ルイと無怖公が政権の座を巡って争い、ルイは母共々無力で双方の駒として翻弄されていた。1405年に無怖公がアラスから兵を率いてパリへ進軍すると母と叔父がムランへ逃亡、ルイは後を追おうとして無怖公に捕らえられた。この時はベリー公ジャン1世(豪胆公の兄)の仲介で事無きを得たが、1407年に叔父が無怖公の刺客に暗殺されると緊張が高まり、翌1408年に無怖公が事件の自己弁護に努めた時も罪状を咎めず聞くだけに終わり、1409年に無怖公が政権を握ると母と共に彼の監視下に置かれた[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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