ルイ・アラゴン
Louis Aragon
ルイ・アラゴン
ペンネームアルベール・ド・ルーティジー(『イレーヌのコン』)、怒りのフランソワ、ジャック・デスタン(地下出版)
誕生 (1897-10-03) 1897年10月3日
フランス、パリ
死没 (1982-12-24) 1982年12月24日(85歳没)
フランス、パリ
墓地イヴリーヌ県サン=タルヌー=アン=イヴリーヌ
ルイ・アラゴン(Louis Aragon、1897年10月3日 - 1982年12月24日)は、フランスの小説家、詩人、文芸評論家。 アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポーらとともにダダイスム、シュルレアリスムを牽引し、『リテラチュール (文学)』を創刊。文芸雑誌『シュルレアリスム革命』を主宰した。 1927年に共産党に入党。UIERのフランス支部「革命作家芸術家協会」の機関誌『コミューン』の編集長、共産党の機関紙『ス・ソワール
人物
戦後は、『ス・ソワール』紙のほか、ロマン・ロランらによって1923年に創刊された共産党系の雑誌『ユーロープ (欧州)』などの再刊に尽力し、共産党の対独レジスタンス・グループ国民戦線(フランス語版)の一派として結成された全国作家委員会(フランス語版) (CNE) の委員長を務めた。
1936年、『お屋敷町』でルノードー賞受賞。女性初のゴンクール賞受賞作家の妻エルザ・トリオレとはレジスタンス・文学活動を共にした。 ルイ・アラゴンは1897年10月3日、パリ16区でルイ・アンドリュー
生涯
母マルグリット・トゥーカス=マシヨンは聖職者ジャン=バティスト・マシヨン(フランス語版)の遠縁にあたり、パリ17区で下宿屋を経営し、その後、ヌイイ=シュル=セーヌに居を構えて、絵付師、英仏翻訳家、大衆小説家として生計を立てていた[3]。アラゴンは母方の家庭で祖父母、2人の大叔母、叔父に育てられた。祖父は(1871年のパリ・コミューンに参加した)コミュナールであった。叔父エドモン・トゥーカス=マシヨンは、『メルキュール・ド・フランス』を中心とした文学者と親交が深く、自ら文芸誌『新現代評論』[4] を創刊し、また、近代芸術の愛好家でもあった[5]。
アラゴンはヌイイのサン=ピエール校で初等教育を受け、リセ・カルノ(フランス語版)に入学。早くから小説や詩を書き、6歳のときに書いた『なんという聖らかな魂』という作品は、20年後の1924年に綴りを訂正しただけで短編集『放縦』に所収された[6][7]。1909年、12歳のときに作文部門の一等賞の賞品としてモーリス・バレス選集を与えられた。後に即興劇「バレス裁判」としてダダイストの批判の対象となるバレスだが、当時はアナキスト・耽美主義者として青年知識人に深甚な影響を与えた文学者であった。アラゴンは「人生の方向を決定づけたと言っても過言ではない」というほどバレスに心酔し、また、バレスを通して、当時はまだ学校で教えられることのなかったスタンダールを読んだ。ゴーリキーの作品に出会ったのも12歳のときだった[8]。 1914年、第一次世界大戦が勃発。アラゴンは1回目のラテン語・科学のバカロレアを取得したばかりで、翌15年7月には2回目の哲学のバカロレアに合格。物理・化学・博物学課程 (PCN) 修了証書を得て、医学の勉強を始めたが、1917年9月に医学生として動員されて軍医補になるためヴァル=ド=グラース陸軍病院に入った。ここで同じく動員された医学生アンドレ・ブルトンに出会い、お互いに、相手が自分と同じようにマラルメ、ランボー、アポリネール、ロートレアモン、アルフレッド・ジャリなど、当時ほとんど評価されていなかった詩人に関心を抱いていることを知った[8]。ブルトンはアラゴンにフィリップ・スーポーを紹介し、彼らの交友はやがて、パリ6区オデオン通り
第一次大戦
ブルトンとの出会い