ルイブール要塞(ルイブールようさい、英語: Fortress of Louisbourg、フランス語: Forteresse de Louisbourg)は、カナダ・ノバスコシア州ルイスバーグ(英語版)(フランス語読みでルイブール)にある要塞。18世紀に建設されたフランス軍の砦を部分的に再建した国定史跡である。
初期の歴史ケープ・ブレトン島のルイスバーグ
イル・ロワイヤル(Ile royale、現在のケープ・ブレトン島)のフランス人による開拓は17世紀初期にまで遡ることができ、現在のノバスコシア半島部に位置するポートロワイヤルなどの場所のような「ベー・フランセーズ」(Baie francaise、現在のファンディ湾)に集中したアカディアの開拓地に続くものだった。 イル・ロワイヤル中部東海岸にあるサンタンヌ(Sainte Anne、現在のイングリッシュタウン
サンタンヌの開拓
1713年のユトレヒト条約でイギリスにアカディアの一部(ノバスコシア半島)とニューファンドランド島の支配権が渡ったが、フランスはイル・ロワイヤル、イル・サン・ジャン(Ile Saint Jean、現在のプリンスエドワード島)およびヌーヴェルフランスの支配は維持した。イル・ロワイヤルは大西洋岸に直接面しているフランスの唯一の領土であり(ニューファンドランドからフロリダまでイギリス支配となっていた)、ニューファンドランドのグランドバンクという重要な魚場に戦略的に近いだけでなく、セントローレンス湾の入り口を守るという位置づけでもあった。 1713年、フランスはポート・ドーフィンの建設に取り掛かり、元のサンタンヌ砦の場所への海からの支援を制限することになったが、その港が冬季に氷結することから、フランスはイル・ロワイヤル南東部外れにもう一つの港を選ぶことになった。そこの港は氷結せず、守りやすかったので、間もなく大西洋岸におけるフランス海軍の冬季港となり、フランス王ルイ14世に因んでアーヴル・ルイブール(Havre Louisbourg)と名付けた。 1719年、フランスはアーヴル・ルイブールの保護された南西海岸にそって位置する要塞都市の建設を始め、そこをルイブールと名付けた。建設は1745年にあったイギリス軍による第一次包囲の前夜になってやっと完成することになった。建設にかけるフランスの投資の莫大な量や経済成長はグランドバンクでの漁業にほとんど全て基づいており、この頃ノバスコシアと改名されたイギリス植民地に住んでいるアカディア人が幾らか流出してきたことと合わさって、間もなくルイブールの町は繁栄する社会となった。増加する建設費[1]は、ルイ15世をしてその大臣達に、もしヴェルサイユ宮殿から西の水平線上に立ち上がるルイブールをいつの日か見ることができれば、という有名な述懐をさせることにもなった。 建設が進み開拓地とその経済が成長するに連れて、ルイブールは間もなくフランス、ヌーヴェルフランスおよび西インド諸島にあるフランス植民地と間の重要な商業中継地になった。この町は大きな漁業基地にもなった。しばしば霧に鎖される港の航行を援けるために、1734年に町とは対岸の南東の岬にカナダでは初めての灯台であるルイブール灯台が建設された。この場所に十字砲火を発することのできるよう砲台が計画されたが、完全に建設されることは無かった。 この要塞は1745年と1758年の2度大きな包囲戦で攻撃された。第一次包囲戦はイギリス海軍の戦隊に支援されたニューイングランドの部隊を巻き込んだ。1745年6月16日、ニューイングランドの攻撃隊がこの要塞の陥落に成功したことはヨーロッパ諸国の大半を驚かせることになった。翌年、ジャン=バティスト・ド・ロイ・ド・ラ・ロシュフーコー・ダック・ダンビルが指揮する要塞奪還のためのフランス軍大遠征隊は、嵐、病気および要塞に到着する前のイギリス海軍の攻撃によって破壊された。 ニューイングランド軍の勝利は、1748年10月18日に調印されたエクス・ラ・シャペル条約でオーストリア継承戦争を終わらせ、ルイブール要塞がイギリス占領軍からフランスに返還されることになった3年後に嫌悪感に変わった。
アーヴル・ルイブール
ルイブール - 要塞都市ルイブール要塞の改修された建物内部
成長
第一次包囲戦: 1745年
ルイブールの返還
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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