ルイス・B・メイヤー
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ルイス・B・メイヤー
Louis B. Mayer
晩年のルイス・B・メイヤー(1953年撮影)
本名Eliezer Meir
別名義L.B.
生年月日 (1884-07-12) 1884年7月12日
没年月日 (1957-10-29) 1957年10月29日(73歳没)
出生地 ロシア帝国 ミンスク
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
職業映画プロデューサー
配偶者Margaret Shenberg (1904-1947)
Lorena Danker (1948-1957)

 受賞
アカデミー賞
名誉賞
1950年
その他の賞

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ルイス・バート・メイヤー(Louis Burt Mayer、1884年7月12日 - 1957年10月29日)は、アメリカ合衆国映画プロデューサーメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの共同創始者の一人として知られる。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの首脳として数十年に渡って独裁的な権力を振るい、「天国よりも多くのスターを擁する」とまで言われた同社の全盛期を現出させた。
経歴
生い立ち

ルイス・B・メイヤーは1884年7月12日に、ロシア帝国領のミンスク(現在のベラルーシ共和国の首都)でエリエゼル・メイル(ヘブライ文字表記:?????? ????、ラテン文字表記:Eliezer Meir、ロシア語表記:Лазарь Меир)として生まれた[注 1]。メイヤーの一家は、当時ロシア帝国から抑圧的な支配を受けていたユダヤ系だった。1886年にメイヤーの父親であるヤコブは、幼いメイヤーと家族を連れてアメリカ合衆国ニューヨークに渡り、その後カナダセントジョンに定住してスクラップ業者になった[1]

少年時代のメイヤーは、ユダヤ系の彼を苛める子供たちとの諍いが絶えなかったという。一家は極めて貧しく、そのためメイヤーも幼い頃から父親の仕事を手伝っていた[2]。やがて商売の基礎を身につけたメイヤーは、無学で軽蔑の対象だった父親の元を離れて1904年ボストンに移り、そこで彼自身もスクラップ業者になった[3]
映画館主からプロデューサーへジュディ・ガーランドミッキー・ルーニーと語らうルイス・B・メイヤー

同年にメイヤーは、マサチューセッツ州のハーバーヒルで朽ち果てた小劇場を買収。1907年に大改修を施して再オープンし、近隣の住民を呼び込むことに成功する。メイヤーが取った戦略とは、汚れた劇場を白い漆喰で覆い隠しオルガンを設置、更に宗教的なメッセージを持つ映画を上映することで、従来のいかがわしいイメージを払拭すると言うものだった。このときに学んだ「アメリカ人は単純で健全な娯楽を欲している」という教訓を、メイヤーは生涯忘れることがなかったとされる[4]

当時急成長中だった映画産業の将来性に目をつけたメイヤーは、その後も周辺の劇場を次々と買収、やがてニューイングランド屈指の劇場チェーンを築くことになる。1914年にメイヤーは、映画の配給権の買取ビジネスを開始する。翌1915年D・W・グリフィス監督作品『國民の創生』が公開されたときには、ニューイングランドにおける独占配給権を獲得し一財産を築いた。同年、その資金を元手にリチャード・A・ローランドと組み、映画会社メトロ・ピクチャーズ(Metro Pictures Corporation)をニューヨークに設立し、その副社長に就任した。1918年に、メトロ・ピクチャーズを離れたメイヤーは、自前の映画製作会社であるルイス・B・メイヤー・ピクチャーズ(Louis B. Mayer Pictures Corporation)を設立、西海岸のロサンゼルスに進出を果たした[3]。メイヤーの会社が最初に製作した劇場映画は、1918年に公開された『Virtuous Wives』というドラマ映画だった。

メイヤーにとって転機が訪れるのは、1924年のことである。この年に全米有数の劇場チェーンの所有主であるマーカス・ロウは、映画業界の再編成を画策。ロウの指揮の下で、メイヤーの退社後に、ロウの傘下に入っていたメトロ・ピクチャーズとサミュエル・ゴールドウィンの保有するゴールドウィン・ピクチャーズ(Goldwyn Pictures Corporation)、更にメイヤーが保有するルイス・B・メイヤー・ピクチャーズの三社が合併し、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーが誕生することになった[2]。この流れの中で、メイヤーは同社の映画製作部門の最高責任者に就任。企業の名目上のトップはロウであったものの、新生メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの実質的な主導権を握ることになる。
ハリウッドの最高権力者ジミー・デュランテと談笑するメイヤー(1948年撮影)

メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの副社長として、ロサンゼルスの映画スタジオの采配を任されたメイヤーは、次々とヒット作を市場に投入する。メイヤーは、スタジオお抱えの人気俳優たちの魅力を最大限に引き出すために映画の配役や脚本を決定、更に大規模な宣伝を行って彼らの興行的価値を高めることに尽力した。この仕事の中には、スターのイメージを崩さないようにするための、彼らの私生活の管理まで含まれていた[注 2]ロン・チェイニーグレタ・ガルボクラーク・ゲーブルスペンサー・トレイシージュディ・ガーランドなど、この時期にメイヤーが発掘し育て上げたスター俳優は枚挙に暇がない。

更にメイヤーにとって僥倖だったのは、当時メトロ・ゴールドウィン・メイヤーにプロデューサーのアーヴィング・タルバーグが在籍していたことである。タルバーグは映画製作に天才的な手腕を発揮し、スタジオの責任者として広報戦略を練るメイヤーを現場からサポートした。メイヤーとタルバーグの蜜月関係は、やがてタルバーグの才能と人望に嫉妬したメイヤーが彼の追い落としを図るまで続いた。1933年、持病のためにヨーロッパで治療を受けていたタルバーグに帰国後用意されたのは、以前の統括プロデューサーの地位ではなく、現場の部門プロデューサーの地位であった。失意のタルバーグは1936年に亡くなるが、メイヤーは嘗ての教え子であり政敵でもあった「天才少年」[注 3]の死を、誰よりも嘆き悲しんだと言う[2]

タルバーグ亡き後のメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの舵取りは、文字通りメイヤーの双肩にのしかかることになった。メイヤーは現場の責任者も兼任することになるが、その際にとった戦略とは、これまでより続編物の製作に力を入れるというものだった[注 4]大恐慌が到来しアメリカ経済そのものが深刻な打撃を受けても、メイヤー率いるメトロ・ゴールドウィン・メイヤーは好調を維持し続ける。絶頂期のメイヤーはアメリカ合衆国で最も高給取りの男であり、その年収は100万ドルを超えていたとされる[3]
権力からの失墜

タルバーグの死や大恐慌という危機を無事乗り切ったメイヤーは、ハリウッド最大の映画スタジオの首脳として不動の地位を築き上げる。しかし第二次世界大戦が終結すると、その勢威にも翳りが見られるようになる。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーが得意とする感傷的な家族ドラマや仰々しいロマンス映画に、観客が以前のような関心を払わなくなったからである[2]。また、この頃テレビという新しい娯楽が徐々に一般家庭に浸透しつつあったのも、映画産業にとって向かい風となった[5]


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