ルイス・キャロル
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ルイス・キャロル
Lewis Carroll

誕生チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン
Charles Lutwidge Dodgson
1832年1月27日
イギリス
イングランド チェシャー州 ダーズベリ
死没1898年1月14日(1898-01-14)(65歳)
イギリス
イングランド ギルフォード
職業数学者論理学者写真家作家詩人
国籍 イギリス
代表作『不思議の国のアリス』(1865年)
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ルイス・キャロル(Lewis Carroll [?lu??s ?ka???], 1832年1月27日 - 1898年1月14日)は、イギリス数学者論理学者写真家作家詩人である。

本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン (Charles Lutwidge Dodgson [?t?????z ?l?tw?d?? ?d?d?s?n]) で、作家として活動する時にルイス・キャロルのペンネームを用いた。このペンネームは "Charles Lutwidge" をこれに対応するラテン語名 "Carolus Ludovicus" に直し、再び英語名に戻して順序を入れ替えたものである。なお、 Dodgson の実際の発音は「ドジソン」ではなく「ドッドソン」に近いという説もあるが[1]、この記事では慣例に従い「ドジソン」と表記する。

作家としてのルイス・キャロルは、『不思議の国のアリス』の作者として非常によく知られている。「かばん語」として知られる複数の語からなる造語など、様々な実験的手法で注目されている。数学者としては、チャールズ・ドジソン名義で著作を出している。

キャロルの作品は出版以来人気を博し続けており、その影響は児童文学の域に止まらず、ジェイムズ・ジョイスホルヘ・ルイス・ボルヘスのような20世紀の作家らにも及んでいる。
生い立ち
家系

ドジソンの一族はアイルランド系の血を含む北部イギリス人である。保守的な英国国教徒であるドジソンの先祖の大半は、軍人か聖職者という英国の上層中産階級における2つの伝統的職業に従事していた。ドジソンの曽祖父である同名のチャールズ・ドジソンは主教であった。また同じく同名の祖父チャールズは陸軍大尉だった。この祖父は1803年に、2人の息子がほとんど赤ん坊の頃、戦死した。

この息子たちの内、父の名を継いだ兄のチャールズは聖職に就き、ウェストミンスター学校からオックスフォード大学クライスト・チャーチに進んだ。チャールズは数学に対して天賦の才能を示し、2度にわたり首席の成績を収め、大いに将来を嘱望された。チャールズは1827年に従姉妹フランシス・ジェーン・ラトウィッジと結婚し、教区牧師となった。
誕生

1832年1月27日、チャールズ・ドジソン(後のルイス・キャロル)は前述の教区牧師チャールズ・ドジソンの長男としてチェシャー州ウォーリントンダーズベリ(英語版)の小さな牧師館で生まれた。チャールズの上には2人の姉がいた。またチャールズの下には8人の弟妹がいたが、女7人、男4人の兄弟姉妹全員が、だれひとり夭折せずに成人となることができた。

父ドジソンは、結婚したために大学での数学の教職(当時は独身が条件であった)を断念したが、聖職者として多くの説教集の出版や、テルトゥリアヌスの翻訳を行い、リッポン大聖堂(英語版)の大執事に就き、英国国教会を二分した激しい宗教論争に関わるなど、聖職者として出世した人物である。ドジソンは高教会派であり、アングロ・カトリック主義(英語版)者であり、神学者ジョン・ヘンリー・ニューマントラクト運動の賛同者であった。チャールズもまた父の影響を受け敬虔なキリスト教徒であったが、のちに儀礼主義を旨とする英国国教会の指針との間に内心の対立を抱え、以降生涯に渡って宗教的なジレンマを抱え続けたとされる[2]

チャールズは吃音だった。幼年期のチャールズは、兄弟姉妹とともに家庭内で教育されていて、7歳にして『天路歴程』に目を通した。チャールズが11歳の時に、父はヨークシャー州クロフトに転任し、一家は広々とした教区館に引っ越し、以後25年間にわたり一家はこの教区館で生活した。12歳の時に、チャールズはリッチモンドの小さな私立学校に入学した後、1845年にラグビー校に転校したが、数年後にラグビー校を離れるにあたり、チャールズは以下の文章を記している。

「地球上のいかなる報酬も、私の三年間をもう一度繰り返させることはできないでしょう……もし正直に言って構わなければ、夜の煩悶に捕らわれなければ、私の日常の苦労はより耐え得るものとなっていたでしょう」

しかし数学講師のR・B・メイヤーは「ラグビー校に赴任して以来、彼の年齢で彼ほど有望な少年を見たことがない」と述べている[要出典]。
学究生活

1850年の終りにチャールズはラグビー校を卒業し、休養期間をおいて、1851年1月に父の母校であるオックスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジに入校したが、47歳だった母フランシスが髄膜炎脳梗塞と思しき脳炎で死去し、入校の僅か2日後に実家に呼び戻された。

翌年、チャールズは文学士号第1次試験に合格し、父の旧友エドワード・ピュージー(英語版)から、スチューデントシップ(クライスト・チャーチにおける特別研究員)に指名された。

1854年にクライスト・チャーチを最優秀の成績で卒業した後、同校の数学講師となったチャールズは以降26年間にわたり仕事を続けた。実は卒業後は国教会の司祭職の資格を取ることが入学の条件であったのだが、表向きには「吃音が説教に支障をきたす」ことを主な理由として、背景には上記のようなチャールズ自身の宗教的葛藤を理由として聖職者の資格を取ることを拒み続けたのではないかと推測されている[2]

また、チャールズはオックスフォードてんかんと診断された。これは当時の社会では非常に不名誉なことだった。しかし、近年のシカゴ・イリノイ大学てんかん診療所の理事ジョン・R・ヒューズは、チャールズのてんかんは誤診だった可能性を主張している[要出典]。

マイケル・フィッツジェラルド(英語版)は、てんかんではなく、自閉症スペクトラム症であったとしている。

  
ルイス・キャロルと写真ルイス・キャロルによるアリス・リデルの写真(1858年)

1856年3月18日にチャールズはオックスフォードの学友であるレジナルド・サウジー(英語版)とともにカメラを購入し、写真撮影を趣味とするようになった。キャロルは、リデル家の少女たちを撮影してまわり、リデル夫人から撮影をやめるように忠告を再三にわたって受け続けたが、撮影し続けた。自分のカメラをリデル家に勝手に置いてゆく始末であった。

チャールズは生涯で300人を超す少女と出会い[2]、彼女らを被写体として写真を撮り続けた。現存するチャールズの写真作品の完全な一覧は、ロジャー・テイラーによる『Lewis Carroll, Photographer』(2002年)ISBN 0691074437 に掲載されているが、テイラーの計算によれば、現存する作品の半分以上は少女を撮影したものである。カメラを入手した1856年のうちにチャールズは、一連のアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデル(当時4歳)の撮影を行っている[3]。ただし、後述するように、現存する写真はチャールズの全作品の三分の一に満たない。

チャールズのお気に入りの被写体はクシー(Xie)ことアレクサンドラ・キッチンであった。クシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っている。1880年にチャールズは16歳のクシーの水着写真を撮影する許可を取り付けようとしたが、これは許されなかった。


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