ルイス・イェルムスレウ
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ルイ・イェルムスレウ(Louis Hjelmslev、1899年10月3日 - 1965年5月30日)は、デンマーク言語学者[1]

フェルディナン・ド・ソシュールが創始した記号学(semiology)をより厳密かつ包括的に発展させた言理学(glossematics)と呼ばれる独自の体系を開拓し、言語の理論にメタ記号[2]や共示(connotation)[3]の概念を導入した。
略歴

ルイ・イェルムスレウは、1899年にコペンハーゲン大学数学教授のヨハネス・イェルムスレウ(Johannes Hjelmslev)の息子としてコペンハーゲンに生まれた[4]。1920年にコペンハーゲン大学に入学し、ホルガー・ペデルセン比較言語学を学んだ。リトアニアプラハパリに遊学し、1926年から翌年にかけて、パリでアントワーヌ・メイエに学んだ[5]

1929年、学んだのは比較言語学であったにもかかわらず最初から一般言語学の体系化を目指していたためか、デンマークの出版社からフランス語で『一般文法の原理』を出版する[6]

1931年、「構造主義者」を標榜した1926年創設のプラハ言語学研究会(プラハ学派)に倣い、言語学の理論化について考察を行う集団としてコペンハーゲン言語学研究会(Cercle linguistique de Copenhague)を結成し、没するまでその会長だった(1934年から37年除く)。コペンハーゲン言語学研究会は3つの委員会(文献委員会、文法委員会、音韻論委員会)から構成されていたが、イェルムスレウがもっとも積極的に参加したのは音韻論委員会であって、さらにプラハ学派の音韻論の体系化を認識論的方法論の観点から不十分[7]と考えていたことから2つの学派は対立することとなった。

イェルムスレウが音韻理論に求めていたことは、当時の音韻論が発達したことにより盛んになってきたプラハ学派が打ち出した構造主義言語学よりも根本的に徹底したものであり、「人文諸科学のための方法論」として「完全に形式化された公理をもとにして、言語固有の構造に到達することを目的とする」理論(言理学)を押し進めることであった[8]

コペンハーゲン学派におけるイェルムスレウの重要な協力者だったハンス・ヨルゲン・ウルダル(Hans Jorgen Uldall)はダニエル・ジョーンズの友人であり、ジョーンズはウルダルから言理学について説明を受けたが、ほとんど理解されなかった[9]。しかし音韻論に関してはプラハ学派と並んでジョーンズはイェルムスレウの重要な相談相手だった[10]

1932年、『バルト諸語研究』(フランス語)と題するバルト語派の研究で博士の学位を取得した。1934年からオーフス大学に職を得た[11]。1937年にはペデルセンの後任としてコペンハーゲン大学の比較言語学教授に就任した[12]

言理学の主張について唯一対等に議論できる理論家であったコペンハーゲン大学言語学教授ビゴ・ブレンダール死去の翌年、1943年に、デンマーク語で『言語理論の確立をめぐって』が刊行される。

1950年代初頭より脳硬化症を患ったことにより知的能力の麻痺が徐々に進行してゆくなか、1965年5月30日ルイ・イェルムスレウ死去。享年65歳。
言理学の企図

イェルムスレウの言理学は難解なことで知られるが、あくまで”言語学の理論”である。1943年の『言語理論の確立をめぐって』によれば彼は「完全に形式化された公理をもとにして、言語固有の構造に到達することを目的とする」理論を展開しようとしており[13]、この一文だけを引けばバートランド・ラッセルの『On denoting(外示について)』のような客観的に存在する外示体(denotation)のみを対象とした数学的方法を用いた分析方法を連想させるものであった。

しかしながら、1930年代にプラハ学派と対立する中、言語学者のハンス・ヨルゲン・ウルダルの助力を得て言理学の構築を決意する際に打ち立てたられた目標としては、数理科学のための方法論としてではなく「人文諸科学のための方法論」として受け入れられる必要があるという認識がなされており[13]、実際にイェルムスレウが導入した代表的なものとしては、技術的文書の作成においては積極的に避けることを半ば強制される共示(connotation)や普通同じく推奨されないメタ(meta)概念であった。

ロラン・バルトと同じくイェルムスレウの思想を普及させるのに中心的な役割を果たしたアルジルダス・ジュリアン・グレイマス(Algirdas Julien Greimas)の代表的著作の『言語理論』は、このイェルムスレウの提示した構想の方針に沿ったわかりやすい例とされ、グレイマスはその中で次のように書いている[14]、「この本は、言語の理論を作り上げるものである。その理論は、言語学でそれまでに得られた知見を全体として取り入れながらも、とりわけ人文科学の認識論として受け取ることができる。なぜならば、この理論は、言語を通して、人間のすべての表現行為を対象としようとするものだからである。」

結論として、イェルムスレウが構想した理論は、ラッセルのような外示体を対象とした言語の数理的分析という範疇をはるかに超えて、その場その場の表現の方法、音韻論、レトリックなどに踏み込んだ、つまり男性が意中の女性をからかう行為などを”科学的”に分析することを目論んだ壮大な言語学の体系であって、日常で発生する言った言わないの水掛け論を裁判所で精緻に裁くためその水掛け論の構造を合理的に組み立てることを意図して大量の難解な専門用語を導入して説明しようとしたようなもの、と喩えることができる。

肝心のイェルムスレウにしても、自身が提示した理論的な要請を進めていくと、言理学は実現不可能な目標を目指すことになるということに早い段階から気づいて言われるが[13][15]、大きな謎があらかた解決された時代においては、その構想上常に何かしらの労力を必要とすることから、特異な地位を占めることとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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