ルイジ・ノーノ
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この項目では、作曲家について説明しています。画家については「ルイジ・ノーノ (画家)」をご覧ください。

ルイジ・ノーノ
Luigi Nono
1979年
基本情報
生誕 (1924-01-29) 1924年1月29日
出身地 イタリア王国ヴェネツィア
死没 (1990-05-08) 1990年5月8日(66歳没)
イタリア、ヴェネツィア
学歴ヴェネツィア音楽院
ジャンル現代音楽
職業作曲家

ルイジ・ノーノ(Luigi Nono, 1924年1月29日 - 1990年5月8日)は、イタリアヴェネツィア作曲家電子音楽ミュージック・セリエルにおける主導的存在の一人となった。
経歴
初期

ノーノは1941年にヴェネツィア音楽院で理論をジャン・フランチェスコ・マリピエロに学び、その後大学で法学部を卒業している。1946年にブルーノ・マデルナヘルマン・シェルヘンに作曲を学びセリー技法を習得する。1955年にアルノルト・シェーンベルクの娘、ヌリアと結婚した。彼のセリエル技法はシェーンベルクからの影響が強いとされていたが、すべて4/4あるいは2/4の等拍で隅から隅まで埋め尽くす初期のノーノの書法はカレル・フイヴァールツの「2台のピアノのためのソナタ」そのままである。

1950年にダルムシュタット夏季現代音楽講習会に出席。そこでエドガー・ヴァレーズカールハインツ・シュトックハウゼンなどの作曲家と出会うが、のちに完全に決裂し独自の道を歩んだ。1950年代前半には、室内楽のための「ポリフォニカ-モノディア-リトミカ Polifonica-Monodia-Ritmica」(1951)、声楽を含む管弦楽曲「ガルシーア・ロルカへの墓碑銘 Epitaffio per Federico Garcia Lorca」(1952-1953)、合唱と管弦楽のための「ゲルニカの勝利 La victoire de Guernica」(1954)、混声合唱と室内楽のための「愛の歌 Liebeslied」(1954)が生まれている。その後、彼は音楽的現象としての完全性を追求し、次第に表層的なセリー技法こそ拒否するようになるが、点描性は保持し続けた。このため「時代遅れの表現主義者」としてシュトックハウゼンやブーレーズから批判された。50年代後半には、「インコントリ Incontri」(1955)、「断ち切られた歌 Il canto sospeso」(1955-1956)、「ディドーネの合唱 Cori di Didone」(1958)等を作曲。ノーノは「点描主義」にまだこだわっていた。
中期

ノーノはイタリア共産党に入党した共産主義者であった。1952年にはマデルナとともにイタリア共産党に入党。彼の前衛音楽もまた、有産階級文化への反発手段となった。作品中で政治に対して訴えることも稀ではなかった。事実、彼に国際的名声を与えた「断ち切られた歌」(第二次世界大戦中における迫害の犠牲者の手紙に基づく)の他、「ポーランド日記 Diario polacco」(1958)、歌劇「不寛容 Intolleranza」(1960-61)、「光の工房 La fabbrica illuminata」(1964)、「アウシュヴィッツの出来事の追憶 Ricorda cosa ti hanno fatto ad Auschwitz」(1966)、「我々はマルクスを食い尽くさない Non consumiamo Marx」(1969)、「一つの妖怪が世界をうろつく Ein Gespenst geht um in der Welt」(1971)、「ベトナムのための歌 Canto per il Vietnam」(1973)、「愛に満ちた偉大な太陽に向かって Al gran sole carico d'amore」(1975)など、彼の作品には政治的要素を満たした旋律を含むものがそのすべてである。1956年以降、彼は次第に電子音楽に興味を持ち始め、同年にはグラヴェザーノ[1] に在るヘルマン・シェルヘンの電子音楽スタジオ(Elektroakustische Experimentalstudio)で、新しい作曲技法についてのシンポジウムに参加する。この分野では、ソプラノ、ピアノ、オーケストラとテープのための「力と光の波のように Como una ola de fuerza y luz」(1971-72)、ピアノとテープのための「苦悩に満ちながらも晴朗な波 ...sofferte onde serene...」(1974-77)、「愛に満ちた偉大な太陽に向かって Al gran sole carico d'amore」(1972-75)などを作曲。この時期のノーノの作品はダイナミクスも大きく、攻撃的な音響の作品が多い。
後期

1980年になると、フライブルクにある南西ドイツ放送局ハインリッヒ・シュトローベル記念財団実験スタジオにおいてライヴ・エレクトロニクス作品の作曲を始める。社会との関りで得られる音ではなく、音の性質そのものを微視的に眺める鉱脈へ興味を持つことになった。この新しい姿勢は、「死の間近な時 ポーランド日記第2番 Quando Stanno Morendeo Diario polacco n°2」(1982)、「冷たい怪物に気をつけろ Guai ai gelidi mostri」(1983)、「クルターグへのオマージュ Omaggio a Kurtag」(1983)に加え、彼の最後のオペラとなった「プロメテオ Prometeo」(1984)といった作品で明らかになっている。同じ傾向の作品として、「断片――静寂、ディオティーマへ Fragmente - Stille, an Diotima」(1980)、日本で委嘱・初演された「進むべき道はない、だが進まねばならない――アンドレイ・タルコフスキーへ No hay caminos, hay que caminar... Andrej Tarkovskij 」(1987)、ヴァイオリン、ライヴ・エレクトロニクスとテープのための「ノスタルジー的ユートピア未来の遠景 La lontananza nostalgica utopica futura」(1988)などがある。

この時期の彼の楽譜は楽器名が付されるのではなく、演奏家本人の名前が書きこまれるようになった。それは彼の片腕として機能した演奏家を歴史に刻むためであった。そこにはファブリッチアーニ、シャッフィーニ、スカルポーネ、ウイッティの名が見える。この時代に入ってもすべて4/4で書き切る作曲法は不変であった。

シュトックハウゼンやブーレーズとは違って指揮活動は無く音楽大学でもほとんど教えていなかったが、ヴェネツィアの自宅のプライベート・レッスンでドイツ人ヘルムート・ラッヘンマンやニコラウス・A・フーバーなどの優れた弟子を世に送り出している。来日も実現し、東大で講演を行った。一番弟子はボグスワフ・シェッフェル、最後の弟子はマウリシオ・ソテロ。

1990年にヴェネツィアで没し、サン・ミケーレ島[2] に埋葬された。
作品

ノーノの作風は三期に分けられる。セリエルな手法で作曲していた初期、テープ音楽を中心に政治的な主張を前面に出した中期、それにライヴ・エレクトロニクスを導入して抑制された静寂を追求した後期である。
初期

室内オーケストラのための『カノン風変奏曲』(1950)

6楽器と打楽器のための『ポリフォニカ、モノディア、リトミカ』(1951)

『管弦楽のための作品 第1』(1951)

声とオーケストラのための『ガルシア・ロルカへの墓碑銘』(1952-53)

混声合唱と器楽のための『愛の歌』(1954)

混声合唱とオーケストラのための『ゲルニカの勝利』(1954)

24楽器のための『インコントリ (集合)』(1955)

ソプラノとコントラルト、テノール、混声合唱とオーケストラのための『断ち切られた歌』(1955-56)

ソプラノ、テノール、合唱のための『大地と仲間』(1957) - C.パヴェーゼによる

混声合唱と打楽器のための『ディドーネの合唱』(1958)

オーケストラのための『ポーランド日記』(1958)

2幕のオペラ『不寛容』(1960-61)

ソプラノ、テノールとオーケストラのための『生命と愛の歌 - 広島の橋の上で』(1962)

中期

声と磁気テープのための『光の工房』(1964)

ソプラノと3人の俳優、クラリネット、打楽器と磁気テープのための『森は若々しく生命に満ちている』(1965-66)

声と磁気テープのための『アウシュヴィッツの出来事の追憶』(1966)

3群のオーケストラと磁気テープのための『バスティアーナに、太陽は輝く(東方紅)』(1967)

磁気テープのための『我々はマルクスを食い尽くさない』(1969)

6人の女声、合唱と録音テープのための『そして、そこで彼は理解した』(1969)

声と磁気テープのための『音楽宣言 第1』(1969)

ソプラノ、合唱とオーケストラのための『一つの妖怪が世界をうろつく』(1971)

ピアノと磁気テープのための『苦悩に満ちながらも晴朗な波…』(1971-72)

ソプラノ、ピアノ、オーケストラと録音テープのための『力と光の波のように』(1972)

合唱のための『ベトナムのための歌』(1973)

オペラ『愛に満ちた偉大な太陽に向かって』(1972-75)

後期

弦楽四重奏のための『断片-静寂、ディオティーマへ』(1980)

バス・フルート、合唱とライヴ・エレクトロニクスのための『息づく静寂 - 断章』(1980-81)

3人のソプラノ、合唱、バス・フルート、
コントラバスクラリネットとライヴ・エレクトロニクスのための『イオ・プロメテウスからの断片』(1981)

4人の女声とバスフルート、チェロとライヴ・エレクトロニクスのための『死の間近な時 ポーランド日記第2番』 (1982)

2人のコントラルト、器楽とライヴ・エレクトロニクスのための『冷たい怪物に気をつけろ』 (1983)

メゾソプラノ、フルート、クラリネット、バスチューバとライヴ・エレクトロニクスのための『クルタークへのオマージュ』 (1983)

オペラ『プロメテオ』 (1984)


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