リーバ・マッキンタイア
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リーバ・マッキンタイア
Reba McEntire
2022年
基本情報
出生名Reba Nell McEntire
別名Reba
生誕 (1955-03-28) 1955年3月28日(69歳)
出身地 アメリカ合衆国
オクラホマ州マカリスター
ジャンルカントリー・ミュージック
職業シンガーソングライター音楽プロデューサー女優テレビプロデューサー
担当楽器ボーカル
活動期間1975年 - 現在
共同作業者ドリー・パートン、マルティナ・マクブライド、トリーシャ・イヤウッド、レッド・スティーガル、ジャッキー・ワード、ペイク・マッキンタイア、イーグルスヴィンス・ギル、リンダ・デービス、ブルックス&ダンケリー・クラークソン
公式サイト ⇒Reba's Official Site

リーバ・マッキンタイア(英語:Reba McEntire、1955年3月28日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州マカリスター出身のカントリー歌手
概要

マッキンタイアの音楽キャリアは、地方のラジオ番組やロデオで、彼女の兄弟たちと歌うことから始まった。オクラホマ州のロデオに誘われた際、カントリー歌手のレッド・スティーガルの注意をひいた。スティーガルは彼女をナッシュビルテネシー州)に連れて行き、1975年にリーバはマーキュリー・レコードと契約した。マッキンタイアは1977年にソロアルバムを発表してから1983年までの間に、マーキュリー・レコードから5枚のスタジオ・アルバムを発表した。

1984年にマッキンタイアはMCAナッシュビル・レコードからアルバム『My Kind of Country』を発表し、そのアルバムからは2曲のトラディショナル・カントリー・サウンドのナンバー1シングル「How Blue」、「Somebody Should Leave」が生まれた。このアルバムの成功は、その後の1980年代から90年代までの彼女の飛躍的な成功へ繋がった。マッキンタイアは25枚のスタジオ・アルバムと、34曲のナンバー1ヒットシングルを発表し、28枚のアルバムはアメリカレコード協会(RIAA)でゴールドディスクまたはプラチナディスクと認定されている。彼女のアルバム『For My Broken Heart』は、女性カントリー歌手が発表したアルバムでは初めてRIAAにダブルプラチナ(200万枚販売)と認定されたものである。

1990年代初期にマッキンタイアは映画『トレマーズ』より、映画での活動を始めた。彼女はブロードウェイでの『アニーよ、銃をとれ』のリバイバルや、テレビ番組のホームコメディ『Reba』で主演をつとめ、ゴールデングローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた[1]。彼女はカントリーの女王と呼ばれていて[2][3]、米国内で4,100万枚、世界では5,600万枚以上の売上を記録している[4]。米国内で、彼女はすべてのジャンルの中で7番目の売上を記録している女性歌手であり、男女問わず7番目の売上を記録しているカントリー歌手で、シャナイア・トゥエインに次いで2番目の売上を記録した女性カントリー歌手である[5]
幼少期

リーバ・マッキンタイアこと Reba Nell McEntire は、1955年3月28日にオクラホマ州ピッツバーグ郡キオワの郊外で出生した[1]。彼女の父と祖父はともに投げ縄のチャンピオンで、父は世界チャンピオンに1957年、1958年、1961年の3回なっている。彼女の母は最初カントリー・ミュージック歌手を目指していたが、挫折して学校の教師となった。その代わりに、マッキンタイアの母は子供たちに歌い方を教えた[6]。彼女の父のロデオ・ツアーのための移動車で、マッキンタイア兄妹は歌を教えられてハーモニーを学び、ボーカルグループ Singing McEntires を結成した。メンバーは彼女とその兄、妹(姉は参加しなかった)で、グループはロデオで歌って「The Ballad of John McEntire」を録音した。その曲はインディーズ・レーベルから1,000枚販売された[1]。1974年、マッキンタイアは小学校教師になるため、サウスイースタン・オクラホマ州立大学に入学した(1976年12月16日に卒業[1])。学校に通っていない間、彼女は地元で歌い続けた[6]。同じ年、オクラホマシティのロデオで国家を歌うことを要請された。クラブで歌っていたとき、カントリー歌手のレッド・スティーガルが彼女のボーカルに感動して、テネシー州ナッシュビルへ連れて行った。デモテーブを録音した後、彼女は1975年にマーキュリー・レコードと契約した[7]
ミュージック・キャリア
1976年 - 1983年:マーキュリー時代

マッキンタイアは1976年1月22日に、マーキュリー・レコードシングル「I Don't Want to Be a One Night Stand」でデビューした。しかし、このシングルはビルボード・カントリー・チャートでは5月に88位までしか記録できず、大きなヒットにならなかった[8]。同年9月16日、2ndシングル「(There's Nothing Like The Love) Between a Woman and Man」を発表すると、この曲も1977年3月に86位までしか記録できなかった。同年4月に発表された3rdシングル「Glad I Waited Just for You」も、8月に88位までしか上昇しなかった。同じ月、デビュー・アルバム『Reba McEntire』を発表した[1]。このアルバムはオールミュージックのレビューによると、タニヤ・タッカーやタミー・ウィネットに似ており現在のマッキンタイアのスタイルとは異なっていた[9]。このアルバムは、ビルボードTopカントリー・アルバムチャートにはチャートインしなかった[1][7]。その後、ジャッキー・ワードと2枚のシングル(「I'd Really Love to See You Tonight」、「That Makes Two of Us」)を発表し、それぞれ20位と26位を記録した[8])。1979年には2ndスタジオアルバム『Out of a Dream』をマーキュリーから発表した。このアルバムに収録されたパッツィー・クラインのカバー「Out of a Dream」が、1979年11月にビルボード・カントリー・チャートで19位を記録し、マッキンタイアにとって初めてのTop20ヒットとなった[1][8]

1980年には「You Lift Me Up (To Heaven)」で彼女にとって初めてのTop10ヒットを記録した[10]。同年10月に発表した3rdスタジオアルバム『Feel the Fire』からは、2枚のTop20ヒットシングルが生まれた[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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