リーハイ・バレー鉄道
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リーハイ・バレー鉄道
Lehigh Valley Railroad

報告記号LV
路線範囲ニュージャージー州ニューヨーク州ペンシルベニア州
運行1846年–1976年
後継コンレール
軌間1,435 mm標準軌
本社ペンシルベニア州ベスレヘム
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リーハイ・バレー鉄道(リーハイ・バレーてつどう、英語: Lehigh Valley Railroad、報告記号はLV)は、アメリカ合衆国北東部において無煙炭の輸送を主な目的として建設された多くの鉄道のうちの1社である。

1846年4月21日にペンシルベニア州において認可され、1847年9月20日付でデラウェア・リーハイ・スクーキル・アンド・サスケハナ鉄道 (Delaware, Lehigh, Schuylkill and Susquehanna Railroad Company) として設立された。1853年1月7日にリーハイ・バレー鉄道へと改称された[1]。その輸送していた無煙炭にちなみ、「黒いダイヤモンドの道」(Route of the Black Diamond) として知られていた。それまで、無煙炭はリーハイ川(英語版)を船で輸送されていた。鉄道はより速い輸送手段として計画されたものであった。
歴史
1850年 - 1860年

建設は1850年に、路線の測量と整地工事から始められたが、その進捗は遅く資金は不足していた。1852年にアサ・パッカー(英語版)がこの会社に投資してから鉄道の発展が始まり、そしてリーハイ・バレー鉄道へと改称した。パッカーの支援とリーダーシップにより、主任技術者のロバート・セイヤー(英語版)は1855年にモーク・チャンク(現在のジム・ソープ(英語版))からデラウェア川沿いのイーストンまでの路線を完成させた。イーストンからは、ペンシルベニア運河デラウェア支線(英語版)を通じてフィラデルフィアへ、あるいはデラウェア川を通じてニュージャージー州フィリップスバーグ(英語版)へ、そしてそこからモリス運河(英語版)とセントラル・レールロード・オブ・ニュージャージーを通じてニューヨークの市場へ石炭を出荷することができた。イーストンでは、リーハイ・バレー鉄道はフィリップスバーグのセントラル・レールロード・オブ・ニュージャージーおよびベルビディア・デラウェア鉄道(英語版)へと連絡するために2階建ての橋を建設した[2]リーハイ・バレー鉄道の主な出来事と合併の歴史

全長46マイル(74 km)のリーハイ・バレー鉄道はモーク・チャンクでビーバー・メドウ鉄道 (Beaver Meadow Railroad) に接続していた。ビーバー・メドウ鉄道は1836年に建設され、ペンシルベニア中部炭田のジーンズビル (Jeansville) から無煙炭をモーク・チャンクにあるリーハイ運河(英語版)まで輸送していた。25年にわたりリーハイ運河はモーク・チャンクより下流側の輸送を独占しており、各荷主に高い運賃を課していた。リーハイ・バレー鉄道が開業すると、荷主は運河から鉄道へ石炭輸送を転換し始め、開業から2年以内にリーハイ・バレー鉄道は年間40万トンの石炭を輸送するようになった。1859年には19両の機関車と600両の石炭車を保有するようになった[2]
1860年 - 1870年

リーハイ・バレー鉄道は需要をもたらす多くのフィーダー路線の接続を受けて、リーハイ渓谷において急速に幹線となっていった。中部炭田からの石炭は、ビーバー・メドウ鉄道へのフィーダー路線であるクアケーク鉄道(英語版)、カタウィッサ・ウィリアムズポート・アンド・エリー鉄道(英語版)、ヘイゼルトン鉄道 (Hazelton Railroad)、リーハイ・ルザーン鉄道 (Lehigh Luzerne Railroad)やそのほかの小さな路線を通じてリーハイ・バレー鉄道へと運ばれた。カタソークア (Catasauqua) では、カタソークア・アンド・フォーゲルズビル鉄道(英語版)が石炭・鉄鉱石石灰岩・鉄をトーマス製鉄(英語版)、リーハイ・クレーン製鉄(英語版)、リーハイ・バレー鉄工所 (Lehigh Valley Iron Works)、カーボン製鉄 (Carbon Iron Company) などの溶鉱炉へと輸送していた。ベスレヘムからはノース・ペンシルバニア鉄道(英語版)がフィラデルフィアまで連絡しており、フィリップスバーグからはベルビディア・デラウェア鉄道がトレントンまで連絡していた[2]。ベルビディア・デラウェア鉄道の4フィート10インチ(1,473 mm軌間に対処するために、両社の鉄道を直通する車両は幅の広い踏面を備えた車輪を使用していた[3]

1864年から、リーハイ・バレー鉄道はフィーダー路線の鉄道会社を買収して自社の鉄道網へ統合し始めた。最初の買収はビーバー・メドウ鉄道石炭会社とペン・ヘイブン・アンド・ホワイト・ヘイブン鉄道 (Penn Haven and White Haven Railroad) であった。1866年には当初クアケーク鉄道と呼ばれていたリーハイ・アンド・マホノイ鉄道を買収し、1868年にはヘイゼルトン鉄道とリーハイ・ルザーン鉄道とさらなる買収を行った。こうした買収により、リーハイ・バレー鉄道は石炭の輸送だけではなく石炭の採掘権も手に入れた[4]

1868年の買収は、炭鉱を買収して石炭の生産とその自社線での輸送を確実にするというリーハイ・バレー鉄道の戦略の始まりとなったという点で特筆される。1864年のビーバー・メドウ鉄道の買収でも数百エーカーに及ぶ炭鉱を含んでいたが、北のワイオミング渓谷(英語版)の炭田で、鉄道会社自ら安価に石炭を採掘・輸送していたデラウェア・アンド・ハドソン鉄道デラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道からの圧迫を1868年頃には感じるようになっていった[5]。リーハイ・バレー鉄道は、自社の繁栄は残された炭田の買収にかかっているということを認識した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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