リーゼ・マイトナー
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リーゼ・マイトナー
Lise Meitner
リーゼ・マイトナー(1946年)
生誕 (1878-11-07) 1878年11月7日[1]
オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
死没 (1968-10-27) 1968年10月27日(89歳没)
イギリスケンブリッジ
居住 オーストリア
ドイツ
 スウェーデン
イギリス
市民権 オーストリア(1949年以前)
 スウェーデン(1949年以降)
研究分野物理学
研究機関カイザー・ヴィルヘルム研究所
ベルリン大学
出身校ウィーン大学
博士課程
指導教員フランツ・S・エクスナー(英語版)
他の指導教員ルートヴィッヒ・ボルツマン
マックス・プランク
博士課程
指導学生アルノルト・フランマースフェルト(英語版)
王淦昌(英語版)
ニコラウス・リール(英語版)
他の指導学生マックス・デルブリュック
ハンス・ヘルマン(英語版)
主な業績核分裂
影響を
与えた人物オットー・ハーン
主な受賞歴

リーベン賞(英語版)(1925年)

マックス・プランク・メダル(1949年)

オットー・ハーン賞(1955年)

王立協会フェロー(1955年)

ヴィルヘルム・エクスナー・メダル(1960年)

エンリコ・フェルミ賞(1966年)

署名
補足
オットー・ロベルト・フリッシュの叔母。父はフィリップ・マイトナー(英語版)
プロジェクト:人物伝
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リーゼ・マイトナー(1906年)

リーゼ・マイトナー(Lise Meitner、1878年11月7日 - 1968年10月27日[2])は、オーストリア出身の物理学者である。放射線核物理学の分野を研究した。核分裂の発見などに大きく貢献したほか、新元素プロトアクチニウムの発見などの業績がある。1907年から1938年までドイツのベルリンで研究したが、ナチスから亡命し、その後は主にスウェーデンのストックホルムで研究活動を続けた。
来歴
生い立ち

1878年11月7日[注釈 1]ウィーンユダヤ系の家庭に、父フィリップ、母ヘートヴィヒの三女として生まれた。フィリップは弁護士、ヘートヴィヒはピアニストであった[3]。元々はエリーゼと名付けられたが、その後リーゼと短くした[4][5]。一家の生活は貧しくはなかったが、マイトナー家は男児3人、女児5人という大家族であったため、裕福でもなかった。一家はコンサートに出かけたり、演奏を行ったりと、音楽に親しむ生活をおくっていた[6]。またフィリップは政治にも深くかかわっており、政治家や作家などをしばしば自宅に招き、集会場のように使用していた[7]

こうした豊かな知的環境で育ったリーゼは、自然科学に興味を持つようになった。しかし当時は女性の学問への道は閉ざされていた。リーゼは小学校卒業後に高等小学校に入学し[8](女性は高等教育を受けることができなかったため、ギムナジウムには入れなかった)、1892年に卒業した。

高等小学校卒業後、リーゼはフランス語の教師の試験を受けることにした。大学教育の不要な専門職だったからである[9]。そして教師として収入を得たリーゼであったが、学問への思いはまだ強かった。ちょうどその頃、オーストリアでは女性の大学入学を求める動きが高まっていた。そして1897年、文学・科学分野に限って、資格試験(マトゥーラ)に合格すれば女性の大学入学が認められるようになった。

そこでリーゼは、大学入学資格試験を受けて大学へ入る道をとることにした。リーゼの両親は、女性が学問を行ったり職を得たりすることに抵抗をもたない人物であったため、リーゼのこの決断を支持した[10]。ただし、この計画が失敗しても職が得られるよう、1899年まではフランス語の教師を続けた。そしてその後、2年間で集中して試験勉強を行い(ギムナジウムに入っていないリーゼは、この2年間で8年間分の学習を行うことになる)、1901年に試験に合格した[11]
ウィーン大学時代

23歳でようやく大学生になることができたマイトナーは、初年度から多くの講義を選択し、勉強に明け暮れる日々を過ごした。おもに数学と物理の講義に出席していたが、マイトナーの興味は次第に物理学へと傾いていった。

当時のウィーン大学の物理学研究所は、施設は粗末なものだったが、研究・教育の質は高かった[12]。とりわけマイトナーを魅了したのは、ルートヴィッヒ・ボルツマンの講義であった。1902年にウィーン大学に赴任したボルツマンの講義は学生に非常に人気があり、マイトナーも欠かさず出席した。マイトナーは後年になってからのインタビューなどにおいても、たびたびこの時のボルツマンの熱意にあふれる講義を話題にし、賞賛している[13]

1906年、マイトナーは博士号の試験に合格。ウィーン大学で4人目、物理では2人目の女性博士となった[14]

こうして博士となったマイトナーは、放射能の分野に関心を持った。そしてその分野で活躍していたステファン・マイヤーと共に、α線β線の金属への吸収に関する論文などを発表した[15][16]。しかし自らの先行きには不安を感じていた。敬愛していたボルツマンは1906年に死去していた。また、放射能の分野ですでに業績を上げていたマリ・キュリーに助手として自分を雇ってくれるよう願ったが、空席がないと断られた。かといってウィーンに残っても、先人となる女性研究者がほとんどいないため、研究者としての仕事が続けられるか定かではなかった[15]

そこでマイトナーは、ベルリンへ行くことを決意した。ベルリンは当時のヨーロッパの科学における中心的な場所であったことや、ベルリン大学のマックス・プランクの名を知っており、1度だけだが会ったことがあることなどが、ベルリンを選んだ理由だった[17]。こうしてマイトナーは、1907年秋、「ほんの何学期かの間ベルリンで学ぶため[10]」ウィーンを離れた。
木工作業所での研究リーゼ・マイトナー(左)とオットー・ハーン(右)。1913年。

ベルリンへとやってきたマイトナーであったが、当時のドイツは女性の学問進出に関して、他のヨーロッパ諸国と比較しても遅れていた。プランクも、1897年にとったアンケートでは、特別な能力と意欲をあわせ持った滅多にない例外的な人をのぞいて、女性に大学教育を行うべきではない、と答えていた[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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