リヴァー・フェニックス
River Phoenix
1989年
本名River Jude Phoenix
別名義River Jude Bottom(旧姓)
生年月日 (1970-08-23) 1970年8月23日
没年月日 (1993-10-31) 1993年10月31日(23歳没)
出生地 アメリカ合衆国
オレゴン州マドラス
出身地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス
死没地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス
国籍 アメリカ合衆国
民族ハンガリー系ユダヤ人
ロシア系ユダヤ人
身長178cm
職業俳優
ジャンル映画
活動期間1982年 - 1993年
活動内容1985年:映画デビュー
1986年:『スタンド・バイ・ミー』に出演
1988年:『旅立ちの時』
1989年『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』
1991年:『マイ・プライベート・アイダホ』
配偶者未婚
主な作品
『エクスプロラーズ』
『スタンド・バイ・ミー』
『モスキート・コースト』
『旅立ちの時』
『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』
『殺したいほどアイ・ラブ・ユー』
『マイ・プライベート・アイダホ』
『スニーカーズ』
『愛と呼ばれるもの』
受賞
ヴェネツィア国際映画祭
男優賞
1991年『マイ・プライベート・アイダホ』
全米映画批評家協会賞
主演男優賞
1991年『マイ・プライベート・アイダホ』
その他の賞
インディペンデント・スピリット賞
主演男優賞
1991年『マイ・プライベート・アイダホ』ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
助演男優賞
1988年『旅立ちの時』
備考
弟:ホアキン・フェニックス
妹:レイン・フェニックス
妹:リバティ・フェニックス
リヴァー・ジュード・フェニックス(英: River Jude Phoenix、旧姓: ボトム/Bottom、1970年8月23日 - 1993年10月31日)はアメリカ合衆国出身の映画俳優[1]。
生涯[ソースを編集]
幼少期[ソースを編集]
1970年8月23日カトリック教徒で大工の父、ジョン・リー・ボトムとハンガリー系=ロシア系正統派ユダヤ教徒の母、アーリン・ドュネッツ(別名:ハート・フェニックス)との間に、5人の子のうちの長男として、1970年8月23日アメリカ合衆国オレゴン州マドラスの地にリヴァー・ジュード・ボトムという名で誕生した[2][3]。ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』で出て来る「川」がリヴァーという名の由来とされる。ミドルネームはビートルズの歌「Hey Jude」が由来である。
1973年に家族でカルト宗教団体「神の子供たち」(現在のファミリー・インターナショナル)に入り、両親が宣教師となったことで、幼少の頃は南アメリカの各地を転々とする生活であった。
1977年、家族は神の子供たちから離脱して帰国、カリフォルニア州のロサンゼルスに移る。灰から甦るフェニックスのように、自分たちの新しい人生への再生の意味を込め、家族で本姓自体をフェニックス(Phoenix)に改めた[3][4][5]。
家庭は貧しく、妹と共に、路上でパフォーマンスをして生活費を稼いでいた。リバーが『スタンド・バイ・ミー』で有名になって、初めてフェニックス家は車を買うことができた。
俳優へ[ソースを編集]リヴァー・フェニックスリヴァー・フェニックス
1989年3月
母がNBCの職に就いたことで10歳にして初めてテレビに出演。広告やテレビシリーズの仕事を経て、1985年、『エクスプロラーズ』で映画俳優としてのデビューを飾った。
翌1986年には映画『スタンド・バイ・ミー』への出演で注目を集める[3][4]。
1988年出演の『旅立ちの時』でアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど、数多の映画への出演をもってスターダムへの階段を駆け上がっていった。
1991年配給の『マイ・プライベート・アイダホ』ではヴェネツィア国際映画祭の男優賞を受賞。代表作とされるこの作品での演技は俳優仲間にも評判が良かったという。
死について[ソースを編集]ザ・ヴァイパー・ルーム
1993年、弟のホアキンと共に訪れたウェスト・ハリウッドでジョニー・デップが経営しているナイトクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム」の入口付近にて、ヘロインとコカインの過剰摂取が原因で倒れ、病院に搬送されるが心不全で死去した[6]。
当時、レッド・ホット・チリ・ペッパーズを一時脱退していたジョン・フルシアンテとはドラッグ仲間で、死の直前にも共にヘロインなどを摂取していた。