リンド・ウォード
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リンド・ウォード
Lynd Ward

本名Lynd Kendall Ward
誕生日 (1905-06-26) 1905年6月26日
出生地アメリカイリノイ州シカゴ
死没年1985年6月28日(1985-06-28)(80歳)
死没地ヴァージニア州レストン
国籍アメリカ
配偶者メイ・マクニアー(英語版)
芸術分野

イラストレーション

文字のない小説

教育

コロンビア大学

ライプツィヒ国立美術アカデミー

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リンド・ウォード(Lynd Ward、1905年6月26日 - 1985年6月28日)は、アメリカ合衆国版画家。多数の児童書、限定本に挿絵をつける一方、『神の僕』『狂人の太鼓』など、連続する木版画のみで物語を表現する「文字のない小説」を刊行し、アメリカ合衆国における木版画の主導的作家となった[1]
生涯

1905年イリノイ州シカゴに生まれる。父ハリィ・F・ウォード(英語版)はメソジスト派の牧師で著名な政治活動家であった。4歳のとき一家はオークパークに移り、その後はマサチューセッツ州ニュージャージー州で少年時代を送った。家庭ではメソジスト派の伝統で静かに過ごすきまりがあり、幼少時に結核にかかって病弱でもあったため[2]、ウォードは自然に本と親しむようになったが、読むよりも絵を見ているほうが多かったという。当時のお気に入りの本はドレの挿絵入りの聖書と、自分のおもちゃでサーカスをつくる少年の物語で、これらの本にのめりこんだことが後の絵に対する興味へとつながった[3]

初学年のとき、ウォードは自分のラストネームを逆に書くと「draw」(描く)になることに気付き、画家を志望する決意をした。高校の美術の授業でリノリウムを使った版画制作を体験し、これをきっかけに様々な版画技法を試み、さらにコロンビア大学に進んで美術を専攻した。しかし版画・印刷が低く見られていることに不満を抱き、ヨーロッパへの留学を決意する。1926年、大学を卒業したその週のうちに大学の同窓生メイ・マクニアーと結婚[4]、新婚旅行でヨーロッパにわたりそのままドイツのライプツィヒ国立美術アカデミー(ドイツ語版)に留学してグラフィックアートを学んだ[3]。在学中に町の本屋を訪れたとき、ウォードはベルギーの版画家フランス・マシリールの、木版画の連作による物語を見つけ、この出会いがのちの「文字のない小説」の構想のきっかけとなった。

アメリカに戻ったウォードはまずイラストレーションに活躍の場を求めて児童書の挿絵を担当、1929年には妻マクニアーが文を担当した源義経の物語『Prince Bantam』の挿絵を制作した。この年にかねてから温めていた「文字のない小説」の出版計画をすすめ、知人のハリソン・スミスが新しく起した出版社と契約して同年10月に第一作『God's Man』(神の僕)を出版。おりしもニューヨーク株式市場が大暴落し世界恐慌がはじまったが、不況にもかかわらず『God's Man』は版を重ね、1930年にはさらに意匠をこらした第二作『Madman's Drum』(狂人の太鼓)を出版した。その後ウォードは1937年までに4作、合計6作の「文字のない小説」を出版している[3]

また『Madman's Drum』の出版と前後してヘリテージ・リミテッド・エディションズ・クラブから限定本の挿絵の注文を受けるようになり、古典や幻想文学、児童文学の挿絵を数多くこなしていった。ウォードが生涯に挿絵を描いた作品は100を超える。木版画のほかにも水彩、油彩、ペン、リトグラフ、メゾチントなどによる作品も残し、自らの著書や挿絵をつけた書籍に多くの賞を受ける[5]。1960年代始めにはボーイスカウト運動の少年雑誌「Boys' life : the boy scouts magazine」に挿画を寄せる機会も多かった[6]。ウォードはやがて1979年に引退してヴァージニア州のレストンの家に住み、1985年6月28日、80歳の誕生日の2日後に死去。2011年、ウォードはアイズナー賞の「漫画家の殿堂」に選出された[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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