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リンドン・ジョンソン
Lyndon Johnson
大統領公式肖像(1964年3月)
アメリカ合衆国
第36代大統領
任期1963年11月22日 – 1969年1月20日
副大統領不在( - 1965年1月20日)
ヒューバート・H・ハンフリー
アメリカ合衆国
第37代副大統領
任期1961年1月20日 – 1963年11月22日
大統領ジョン・F・ケネディ
出生1908年8月27日
アメリカ合衆国
テキサス州ストーンウォール(英語版)
死去 (1973-01-22) 1973年1月22日(64歳没)
アメリカ合衆国
テキサス州ストーンウォール
政党民主党
出身校南西テキサス州教員養成大学
(現在のテキサス州立大学サンマルコス校)
配偶者レディ・バード・ジョンソン
子女リンダ・バード・ジョンソン・ロッブ
ルーシー・ベインズ・ジョンソン
署名
リンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson、1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国の政治家。同国第36代大統領(在任: 1963年11月22日 - 1969年1月20日)。 1908年8月27日にテキサス州ストーンウォール
概説
1961年1月20日に民主党ケネディ政権の副大統領に就任し、1963年11月22日にケネディ大統領暗殺事件で大統領に昇格、政権を引き継いだ。リベラルとして知られたケネディに対して、南部テキサス州出身のジョンソンは民主党の中では保守派と目されていたが、大統領就任にあたって掲げた貧困撲滅と公民権の確立を骨子とする「偉大な社会 (Great Society) 」政策は、非常にリベラル色の強いものであった。
政権初期には公民権法の早期成立に向けて議会をまとめることに努め、議会との関係が円滑でなかったケネディに比べて巧みな議会工作で法案を可決させ[1]、その他にも内政においては達成した政治課題が多く、ジョンソン政権は同じ民主党のルーズベルト政権と並んで「大きな政府」による社会福祉や教育制度改革、人権擁護を積極的に推進した政権であった。
しかし、外交政策ではケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大させ、国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらした。
ケネディ暗殺後の1964年アメリカ合衆国大統領選挙では、ケネディへの同情票と昇格後1年間の政権の成果を評価する票で共和党候補のバリー・ゴールドウォーターを大差で破り、歴史的な大勝を果たした。しかし1965年からベトナム戦争の拡大で国の内外からの強い批判に身動きが取れなくなり、次の再選を目指した1968年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党の大統領候補の指名を受けることが危ぶまれる状況となり、1968年3月31日、全米に向けたテレビ演説でそれまでのベトナム政策の劇的な転換を発表すると同時に大統領選挙に再出馬をしないことを表明、自らの政治生命に幕を引いた。 1908年8月27日にテキサス州中央部のテキサス・ヒル・カントリーと呼ばれる地域にある農村、ストーンウォールで誕生した。彼の両親サミュエル・ジョンソンとリベカ・ベインズは、貧しい地域で農場を所有しており、彼らには更に4人の子供がいた。妹のリベカ、兄弟のジョセファ、サム・ヒューストン、ルシア。リンドン・ジョンソンは幼年期を通じて公立学校に通い、1924年にジョンソンシティ高校を卒業した。 1926年には、南西テキサス教員養成大学(現・テキサス州立大学サンマルコス校)に入学した。校内活動や学校新聞の作成に参加し、苦労しながらも1931年に卒業した。なお在学中に1年休学し、テキサス州南部・コトゥーラの貧しいメキシコ系移民の生徒が通う学校で教師見習いを務めている。 ジョンソンは大学を卒業した後、ヒューストン高校で演説および討論を教えた。しかしながらすぐ教職を辞め、父親の力を借りて政治の世界に入った。ジョンソンの父は、テキサス州議会で5期務めており、後に連邦下院議長となるテキサス州選出下院議員のサム・レイバーン
来歴
生い立ち
政治家へテキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬したジョンソン(右)の支援に訪れたフランクリン・ルーズベルト(左)
秘書としてのジョンソンは数々の影響力を持つ人々と知り合い、彼らがどのようにその地位に達したか、いかにして尊敬を集めているかといったことを学んだ。またルーズベルト政権の主要人物数人ともパイプを持ち、当時副大統領だったジョン・ナンス・ガーナーとは同じテキサス州出身で、その後相談役としてジョンソンを支えていくこととなった。
秘書在任中、ジョンソンはテキサス出身のクローディア・アルタ・テーラーと出逢い、数度のデートの後、1934年11月17日に結婚した。これが後にレディ・バード・ジョンソンとして知られるようになるジョンソンの妻である。夫妻には、1944年に長女のリンダ・バードが、1947年には次女のルーシー・ベインズが生まれている。
1935年にはテキサス州青年局長に就任し、政府が若い人々のために教育の充実と雇用の拡大をするよう尽力した。この活動によってジョンソンは自身の政治的地盤を構築することができた。