リンディ・イングランド
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リンディ・イングランド
Lynndie England
2000年頃 陸軍撮影
生誕 (1982-11-08) 1982年11月8日(41歳)
アメリカ合衆国ケンタッキー州アシュランド
所属組織アメリカ陸軍
軍歴1999年 - 2008年
最終階級技術兵
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リンディ・ラナ・イングランド(Lynndie Rana England、1982年11月8日 - )は、アメリカ陸軍の元予備役軍人イラク戦争の発生に伴い、第372憲兵中隊に配属された。イラク占領任務中に発生したバグダッドアブグレイブ刑務所におけるイラク人捕虜虐待に関連して、アメリカ陸軍の軍事裁判において有罪判決を受けた軍人のうちの1人。
経緯

2003年イラク在留中、イングランドは第372憲兵中隊で技術兵として従軍。この際、他の軍人とともにイラク人捕虜に性的・肉体的・精神的虐待を負わせた事を、後の軍法会議にて認めている。

2005年1月、捕虜虐待および暴行の罪で高等軍法会議に起訴された。正式な起訴状は『拷問』という言葉を記載しなかったものの、多くの関係者は彼女の行為を『拷問』と述べている。2005年4月30日、イングランドは虐待罪の罪状を認めた[1]司法取引が連邦判事によって受け入れられた場合、最高刑は16年から11年まで減罪されたのだが、成立しなかった。これが成立していれば、彼女は捕虜虐待の4つの訴因、共謀の2つの訴因、および職務怠慢の1つの訴因を有罪答弁することと引き換えに、検察は他の2つの告訴(わいせつ行為と法定指令への不遵守)を不起訴とするはずだった。

2005年5月4日、イングランド上等兵はその当時自身の行為が違法との認識がなかったことを示唆した、チャールズ・グレイナー伍長(事件当時。二等兵に降格処分)からの新たな証言により、軍事裁判官であるジェイムズ・ペール大佐はイングランドの司法取引を拒否した。この証言が、2005年5月2日に行われたイングランドの有罪答弁[2]における自身の供述と相反したためであった。2005年9月26日、共謀の1つの訴因、捕虜虐待の4つの訴因、およびわいせつ行為の1つの訴因の罪により有罪判決を受けた。もう一つの共謀の訴因は問われなかった。禁固3年と不名誉除隊が宣告された。

2005年9月27日、イングランドが犯した捕虜への暴行や虐待に対する謝罪ではないが、彼女は写真への登場に対して謝罪した。

判決確定後は刑務所(サンディエゴのミラマー海兵隊航空基地内統合営倉)に収容され、厨房で働いていた。2008年9月28日、満期出所し除隊。2009年7月には自叙伝「Tortured: Lynndie England, Abu Ghraib and the Photographs that Shocked the World」(拷問者だった ―リンディ・イングランド、アブグレイブと世界を震撼させた写真―)を出版。
経歴

アメリカ合衆国ケンタッキー州アシュランド生まれ。鉄道員の父親を持つ。2歳のとき、ウエストバージニア州フォートアシュビーに引っ越し、ここで成長する。学校では、コンバットブーツと迷彩服を着ていることで有名だった。

ミネラル郡ショートギャップの近くにあるフランクフォート高等学校在学中の2001年、カンバーランドの陸軍予備軍に参加する。理由は、ウエストバージニア州ハーディ郡ムーアフィールドにある鶏肉処理工場での夜間の仕事から逃避するため、ならびに、気象予報士になるために大学へ行く資金を貯めるためであった。彼女はアメリカ学校農業クラブ連盟の一員でもあった。2001年に高校を卒業。その後、スーパーマーケットIGAのレジ係として働き、2002年に同じ職場の男性と結婚したが、その後離婚。2003年にイラクへ出征した。

予備役兵の同僚であるチャールズ・グレイナーと婚約(グレイナーも虐待に関与し処罰された一人である)。2004年10月11日21時25分、フォートブラッグにあるウーマック陸軍医療センター(Womack Army Medical Center)にて、男児を出生している。
罪状※注意:暴力的な、画像があります。
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裸の捕虜を指差すイングランド捕虜の首紐を手に持つイングランド裸の捕虜からなるピラミッドの後ろで親指を立てているグレイナーとイングランド


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