リンチバーグ_(バージニア州)
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リンチバーグ市

中心街のアライド・アーツ・ビル(1931年築)
標語 : "丘の都市、7つの丘の都市"
位置

バージニア州におけるリンチバーグの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度24分13秒 西経79度10分12秒 / 北緯37.40361度 西経79.17000度 / 37.40361; -79.17000
歴史
独立市
行政
アメリカ合衆国
  バージニア州
リンチバーグ市
市長ジョーン・フォスター
地理
面積 
  域128.9 km2 (49.8 mi2)
    陸上  127.9 km2 (49.4 mi2)
    水面  0.9 km2 (0.4 mi2)
      水面面積比率    0.74%
標高192 m (630 ft)
人口
人口(2020年現在)
  域79,009人
  備考[1]
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : ⇒[5]

リンチバーグ(: Lynchburg)は、アメリカ合衆国バージニア州独立市である。人口は7万9009人(2020年)。ジェームズ川沿い、ブルーリッジ山脈の麓に位置しており「丘の都市」や「7つの丘の都市」と呼ばれる。時として「孤高の都市」と呼ばれることがあるが、これは歴史的に州政府や連邦政府との縺れを回避してきたことに関連している。

リンチバーグ都市圏は5,496km2 の広さがある。バージニア州の地理的中心にあり、アマースト郡アポマトックス郡ベッドフォード郡キャンベル郡ベッドフォードに跨っている。都市圏人口は約25万人であり、州内で5番目に大きい。

リンチバーグにはリバティ大学など複数の高等教育機関がある。ダウンタウンには商業施設の集積があり、広域から買い物客を集めている。製造業は、ウラン関連、製薬業、物流業がある。多様な産業が地域経済を安定させ、景気悪化の影響を最小化している[2][3]。その住民に対する ⇒デジタル都市10傑調査では、この調査が2004年に始まって以来ランク入りしており、2007年にはトップタイになった。
歴史

1757年に初めて入植されたリンチバーグは、その創設者であるジョン・リンチに因んで名付けられた。リンチは17歳のときにジェームズ川の浅瀬で渡し船の運航を始め、ニューロンドンとの行き来を確保した。また川に架かるリンチバーグでは最初の橋造りにも貢献し、1812年にはこれが渡し船に置き換わった。リンチとその母はサウスリバー・フレンズ集会所の墓地に埋葬されている。「7つの丘の都市」はリンチの渡しを取り囲む丘に沿って急速に発展した。トーマス・ジェファーソンはポプラ・フォレストと呼ばれるリンチバーグ近くの家を持っていた。ジェファーソンは度々リンチバーグを訪れ、「リンチバーグの町に有益であることより大きな楽しみをくれるものは無い。そこは州内で最も興味有る場所だと考えている」と述べた。

リンチバーグの町はジェームズ川のリンチ渡し場の地に1786年の認可で設立された。これら新しく便利な輸送手段によって地域交通がリンチバーグを通るようになり、タバコ交易の新しい商業中心になった。1810年、ジェファーソンは「リンチバーグはおそらく、アメリカで最も発展しつつある場所だ。...重要さではリッチモンドの次に来る。...」と記した。19世紀には商業と製造業の中心となり、1850年代までに1人当たりの数字で(マサチューセッツ州ニューベッドフォードと共に)アメリカで最も富める町の1つとなった[4]。主要産業はタバコ、鉄および鋼だった。輸送手段としては、ジェームズ川のジェームズリバー平底船、ジェームズ川とカノーワの運河、さらに後にはバージニア・アンド・テネシー鉄道やノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道など4つの鉄道線が加わった。

初期のリンチバーグはその信心深さではあまり知られていなかった。1804年、福音伝道者ロレンゾ・ドウがリンチバーグについて、「...悪魔の王国があると考えることについて私が公然と語る所です。リンチバーグは神を崇拝することについては恐ろしい場所です。」と記していた。これはリンチバーグに教会が無いことを指していた。リンチバーグの富が増大するにつれて、売春など「下品な」行動が極めて普通のこととなり、多くの場合、当時の「上層部」によって認められていなければ無視された。これらの行動の大半は「ハゲタカのねぐら」と呼ばれる町の中心街で起こった。

南北戦争の間、リンチバーグは南軍の供給基地となり、北軍デイビッド・ハンター将軍がシェナンドー渓谷から南に出てきて、リンチバーグから1マイル (1.6 km) 以内に接近した。ハンターはリンチバーグに予想よりも大きな南軍部隊が駐屯しているという誤った印象を抱き、1864年6月18日のリンチバーグの戦いで、南軍ジュバル・アーリー将軍の部隊に撃退された。この誤った印象を抱かせるために、1編成の列車が常に行ったり来たりし、住民は援軍が降りてきたかのように喝采を挙げた。町の売春宿もその欺瞞に加わり、その北軍側「お客さん」に南軍の援兵が大勢来ていると嘘を伝えた。

1865年4月6日から10日はリンチバーグがバージニア州の州都となった。ウィリアム・スミス知事の下で、リッチモンド陥落から南軍の降伏までの数日間、州の行政府と立法府がリンチバーグに移動した。

19世紀後半、リンチバーグ経済は製造業に転換が進み(時として「南部のピッツバーグ」と呼ばれた)、1人当たりの数字でアメリカで最も富める町の1つとなった。1880年、リンチバーグの住人、ジェイムズ・アルバート・ボンサックが最初の紙巻きタバコ製造機を発明し、その後間もなく、医者で薬理学をかじったチャールズ・ブラウン・フリート博士が初めて大量生産し店頭販売できる浣腸剤を導入した。フリートが設立した会社は現在でも製造を続けている(この会社のウェブサイト ⇒[6]に記されているように他の下剤や腸洗浄用製品を扱っている)。フリート博士はまた、1880年代初期にリンチバーグでリップクリームとして「チャップスティック」を発明した。この頃、ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道とシェナンドー渓谷鉄道の接続点としても選ばれていた。しかし、リンチバーグ市民はそれが生み出す騒音や汚染のために接続点となることを望まなかった。それ故に、接続点はロアノーク市となる場所に置かれた。

1951年冬、ワシントンD.C.ナショナル・ギャラリーは、リンチバーグ市にあるランドルフ・メイコン女子大学を非常時の際の保管場所に選定した。この「プロジェクトY」に参加する見返りに、大学はその設備の前室を展示スペースとして使うことを認められ、1970年代にそれを始めた。50年代から70年代にかけて冷戦の緊張感が高まっていったが、ナショナル・ギャラリーがプロジェクトYに合わせて国の宝を動かすような事態にはならなかった。

1950年代後半。多くの関心を抱いた市民が連邦政府に、クリントンフォージとリッチモンドの間に長い間計画されていた州間高速道路(現在の64号線)の経路を変更するよう要請した[5]。1940年代以降、連邦政府が計画する州間高速道路の地図では、北側の経路を通り、リンチバーグを通る高規格道路は無かった[6]。州の高規格道路委員会議事録でも北側の経路を承認したことになっていた[7]。南側経路の提唱者はバージニア州高規格道路委員会の大半を検討後の変更を指示するよう説得に成功したが、1961年7月、リンゼー・アーモンド知事とアメリカ合衆国商務長官ルーサー・ホッジスは、経路を変えないことを宣言した[8]。このためにリンチバーグ市は(当時)人口5万人以上の都市で唯一州間高速道路の無い町になった[9]

リンチバーグ市は時として「それ自体の都市」と呼ばれることがある。これは地理的および文化的に孤立していることもあるが、州や連邦政府との縺れを歴史的に回避してきたことに関連するところが大きい。


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