リンゴの唄
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この項目では、並木路子・霧島昇が歌った戦後のヒット曲について説明しています。2003年の椎名林檎の歌については「りんごのうた」をご覧ください。

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「リンゴの唄」
並木路子シングル
リリース1946年1月
(オリジナル版、霧島昇と共唱)
実際の公開は1945年10月11日が最初。
1949年
1971年12月
1977年8月
1992年9月21日
1995年4月1日
(再録音版、並木のソロ歌唱)
規格SP盤(オリジナル版)
EP盤(1971・77年盤)
カセットテープ(1992年盤)
8cmCD(1995年盤)
録音1945年12月14日
(オリジナル版、霧島昇と共唱)
1965年
(再録音版、並木のソロ歌唱)
日本
ジャンル歌謡曲
レーベル日本コロムビア
作詞・作曲サトウハチロー(作詞)
万城目正(作曲)

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「リンゴの唄」(リンゴのうた)は、1945年の日本の楽曲。並木路子霧島昇(霧島の共唱はオリジナル版のみ)によって発売され、日本の戦後のヒット曲第1号となった楽曲。作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正。編曲はオリジナル版が仁木他喜雄、並木のソロ歌唱によるステレオ録音版が松尾健司。

第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月11日公開、松竹大船)の主題歌及び挿入歌として発表された[1][2]。なお、『そよかぜ』は並木が主演を務め、霧島も出演している。

『そよかぜ』の劇中では並木や霧島のほか、波多美喜子もオープニングやエンディングで歌唱している[3]。エンディングでは並木→霧島→波多→全員の順で披露される[4]。また、劇中ではレコード化された歌詞とは異なる歌詞も披露される[5]
概要

サトウハチローがこの詞を作ったのは戦時中であったが、「戦時下に軟弱すぎる」という理由で検閲不許可とされ、戦争終了後に日の目を見た。というのがこれまでの定説化した話であったが、出版文化研究家の永嶺重敏が当時の文献を調査した結果、1946年の雑誌記事でサトウハチローが「映画の脚本を読んでから詞を書いた」と記述していること、さらに佐々木康監督も晩年に「映画の脚本をサトウに持たせて詞を書かせた」と発言していることから、詞を作ったのは戦後であると結論づけている[6]。曲は映画の撮影が始まっても完成せず、作曲者の万城目正は秋田県のロケ先へ向かう汽車の中で曲を書いたと回想している[7]

可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、終戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦の暗い世相に打ちひしがれた人々に明るくさわやかな歌声がしみわたり、空前の大ヒットとなった。2007年平成19年)には日本の歌百選に選出されている。

「リンゴの唄」吹き込みの際、万城目正はたびたびダメを出し「もっと明るく歌うように」と指示したが、この注文は当時の並木には酷だった。並木は戦争で父親と次兄を亡くし、自身も1945年3月10日の東京大空襲で猛烈な火炎に追われ隅田川に逃げ込んで助かったものの母親を亡くしていたのである[8][9]。さらに大空襲で大勢の人々が死ぬのを目の当たりにし、どうしても明るく歌えない並木に万城目は「君一人が不幸じゃないんだよ」と諭して並木を励まし、あの心躍らせるような明るい歌声が生まれた[8][9]

映画が封切りされてからレコード吹き込みまでに「そよかぜ」と「リンゴの唄」は再三ラジオで放送されていた。永嶺がNHK放送博物館が所蔵する資料『洋楽放送記録』と『放送番組確定表』を調査した[10]結果によると、並木が初めてラジオで「そよかぜ」と「リンゴの唄」を披露したのは1945年12月2日放送のNHK『歌と軽音楽』である[11]。それ以前にも並木は出演していないものの、1945年11月10日放送のNHK『農村へ送る夕』(出演:霧島昇・宮下晴子)にて「リンゴの唄」が披露された記録がある[12]。当時、出演する歌手は歌う曲の譜面を放送局に持っていったが、出演者の一人であった霧島昇はその際必ず「リンゴの唄」の譜面を持って行っていた。「リンゴの唄」のヒットを予感していた霧島は、万城目に直談判し、この曲でデビューが決まっていた並木路子と共に歌わせて欲しいとの要請をしたため、急遽「リンゴの唄」は並木とのデュエットという形になった[13]。また霧島は本人の希望でデュエットという形で参加したものの、並木を売り出したいコロムビア側の意向でステージでは歌わなかったという(出典:読売新聞)。そのため「リンゴの唄」が霧島とのデュエットであったことは、並木によるソロバージョン(後述)の方が最も良く流通している理由もあり、後にあまり知られなくなった。

レコードは1945年昭和20年)12月14日に録音され、1946年(昭和21年)1月に日蓄工業株式会社から「コロムビアレコード」として第1回新譜臨時発売分として市場に出た。廃盤まで長期間にわたり継続生産された為に、レーベルの印刷書式・インク・用紙に様々な区分がある。初版はレコード番号の前に規格区分の12が記され、社名が日蓄工業とローマ字で印刷されたものである。このレコードについては、「(当初は)A面が『そよかぜ』、B面が『リンゴの唄』であった」という説が広く信じられていたが[14]、実物のレコードではA面・B面の表記はなく、またレコード内容や当時の新聞広告などから、永嶺は実質的なA面は「リンゴの唄」であったと考えられるとしている[15]。なお、並木が独唱で録音した音源(1945年12月14日以前の録音)が存在するとの説があるが、録音台帳と発売原簿には上記の事実は存在せず、事実誤認と考えられる。

1949年(昭和24年)には並木のソロ歌唱によるレコードが発売されている[16]

レコード売上には諸説あるが、1947年末までの2年間に12万5000枚を売り上げたという記事があり[17]、レコード業界が非常な苦境にあった当時としては驚異的な大ヒットであったと考えられる[18]。文献によっては発売から2?3年で約33万枚に達したともされる[19]1960年に販売中止となる[19]。その後1965年に並木のソロ歌唱によるステレオ音源が録音され[20]、同年発売のLP『ステレオによる戦後20年歌のヒット・アルバム -「リンゴの唄」から「北国の街」まで-〈その一〉』(日本コロムビア ADX-26?7[20])や1966年発売のコンパクト盤『歌は世につれ-リンゴの唄-』(日本コロムビア ASS-200)などに収録された。この再録音版は後にシングルカットされ、1977年8月にも再発売された[19]。再録音盤は1984年の1年間に1830枚が売れた[19]


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