リンカーン_(自動車)
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リンカーン
The Lincoln Motor Company

本社所在地ミシガン州ディアボーン
設立1917年
業種自動車
関係する人物ヘンリー・リーランド(創業者)
ウィルフレッド・リーランド(創業者)
外部リンクhttps://www.lincoln.com/
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リンカーン (Lincoln) はアメリカフォード・モーター社の一部門であるザ・リンカーン・モーター・カンパニー (The Lincoln Motor Company) によって販売されている高級車ブランドである。ブランド名の由来は、創業者が尊敬していた第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンにちなんだものである。キャデラックと並んでアメリカを代表する高級車として知られている。

販売地域は北米中東韓国日本に加えて、2014年には中国にも進出した[1]
概要
創業1922年式モデルL・ツーリング。初代リンカーンの最初期型で実用一辺倒なスタイル1929年式モデルL・スポーツツーリング。初代リンカーンの末期型で、架装されるボディは格段に豪奢となった

1917年8月、リンカーンはヘンリー・M・リーランドとその息子のウィルフレッド・リーランドによって設立された。 リーランドはキャデラックの創業者のひとりで、キャデラックがGMに吸収された後も同部門の責任者を務めていた。

第一次世界大戦中、 リーランドは政府からの要請で航空エンジンの生産に乗り出そうとしたが、ゼネラルモーターズの創業者ウィリアム・C・デュラントに反対されたため、ゼネラルモーターズを辞して、自らエンジンメーカーのリンカーン・モーターカンパニーを設立した。 リンカーンは終戦までに6500基のリバティ航空エンジンを納入している。

戦後、リンカーンは高級車メーカーとして再出発を遂げた。リーランドはかつてのキャデラックで高性能なV型8気筒車を開発したノウハウを活かし、それを上回る時速80マイル(=約130km/h)を達成可能な「スーパー・キャデラック」ともいうべき高性能高級車を、リンカーンブランドで実現しようとしたのである。1920年9月に完成した最初の試作車は90PS以上の高出力で実際に80マイル・クラスの最高速度を実現、徹底した品質管理と群を抜いた性能によって大きな前評判をとった。

しかし、最初のリンカーン「モデルL」は発売当初こそ注目を集めたが、販売実績はほどなく急落した。原因はスタイリングであった。リーランドは機械的な精密さと高性能を追究することには熱心だったものの、スタイリングには無頓着であった。あいにくリンカーンが当初契約したボディ外注先のボディメーカー各社は、強度や仕上げの面はともかく、不格好で魅力に欠けた実用デザインしか施せず、富裕層に好まれるような美しいスタイルの高級ボディを作れなかったのである。自動車のボディが幌屋根のオープンタイプから、固定した屋根と窓ガラスを備えるクローズドタイプに移行し、ボディデザインの重要度が高まっていた時代に、これは致命的な弱点となった。

加えて戦後の不況や合衆国政府による戦時中の利益に基づく追徴課税がリンカーンを直撃、激しい財政難に遭遇し、その結果、1922年、リンカーンはフォード・モーターに買収された。 買収後もリーランドはリンカーンの責任者を務めていたが、フォードとの意見の対立からわずか4ヵ月後には会社を辞してしまう。リーランドの辞職を機に、リンカーンはフォード・モーターの高級車ブランドとして本格的に組み込まれていく事になるが、リンカーン・モーターカンパニーはフォード・モーターの子会社として1940年4月30日まで存続し、その後はフォード・モーターのリンカーン部門に吸収・再編されている。
フォード買収後の発展1930年代のリンカーン・モデルK初期型のフロントディテール(3Dメガネ用画像)1937年式モデルK・ツーリングカブリオレ。1932年以降シャーシ設計はそのまま、1939年までボディ・ノーズデザインのみ年度変更で徐々に流線型化された。グリルの青いバッジは当時の標準エンブレム。V型12気筒エンジン搭載

フォード・モーターの創設者ヘンリー・フォードは当初高級車部門への参入には消極的だった。フォード・モーターも創立初期の頃には高級車を手がけていたが、大衆車フォード・モデルTの成功によって、モデルTの単一車種集中生産に邁進するようになり、市場の限られた高級車からは手を引いていたからである。

結局ヘンリー・フォードは、息子で名目上のフォード社社長であったエドセルにリンカーンを委ねることになる。この時エドセルは『父は世界一の大衆車を作ったが自分は世界一の高級車を作りたい』と決意を語ったという。

エドセルは幼い頃から父親の作る自動車や機械に触れ、また現場で叩き上げた職業人の父親と違って高等教育を受けた教養人で、欧州の自動車業界や社交界にも知己を持つなど、自動車に限らぬ幅広い知見を備えていた。特に自動車のスタイリングに関しては、自ら手がけることこそなかったものの、優れた批評眼を持つ人物であった。リンカーンを手中に収めてからのエドセルはアメリカのカースタイリングトレンドの中心人物になったといっても過言ではない。

エドセルはその見識と交友関係の広さを活かし、数々の有名コーチビルダー(当時の高級車の場合、自動車メーカーはシャーシーのみを製作、顧客の好みに合わせたボディをコーチビルダーで架装するのが一般的だった)と契約、優美なボディを架装することが可能となり、これによってリンカーンに商業的成功がもたらされた。ジャドキンス、ル・バロン、ブラン、ウィロビーなど、当時のアメリカの一流コーチビルダー各社が、顧客の嗜好に合ったスタイリッシュなボディを架装したのである。ほどなくリンカーンはキャデラックやパッカードなどと並び、アメリカを代表する高級車のひとつという評価を勝ち得ていく。

リーランド設計の初代V8モデル・Lシリーズは豪奢なボディに加え、1928年には排気量を拡大(5.9L→6.3L)して100psに出力向上、商品性を高めた。そして1930年には1931年モデルとして125PSの新型V8エンジンを搭載した「Kシリーズ」にモデルチェンジした。

更に同時代の高級車における多気筒エンジンブームを反映し、Kシリーズ・リンカーンにも翌1931年、「1932年モデル」として150PSのV8・7.3Lエンジンを搭載した「モデルKB」が追加される(V8モデルはKAとなり1933年まで継続。以降はKBが単にモデルKとなる)。12気筒KBの最高速度は時速100マイル(約161km/h)超という高水準で、高級車としての地位を確固たるものとした。

1927年からは、グレイハウンドを象ったマスコットがリンカーンのフロントグリル頂点を飾るようになり、現行のダイヤモンドの光芒を象ったエンブレムに変えられるまでの戦前期リンカーンの大きな特徴のひとつとなっている。
ゼファーと初代コンチネンタル1937年式ゼファー・クーペ。当時における最も洗練された流線型デザインの一つであった。V型12気筒エンジン搭載ゼファー(1937年型)1946-48年型と思われる初代コンチネンタル。戦後生産車はフロントグリルのみオーバーデコレートで改悪されたが、全体のプロポーションはゴードン・ビューリグのデザインした1942年式コンチネンタルを踏襲する

1936年、リンカーンはゼファーの投入によって、上位中級車市場(アッパーミドルクラス、もしくは高級車内の廉価クラス)にも進出、その斬新な流線型のスタイリングと相まって大好評をもって迎えられた。ゼファーはアメリカ車一般に流線型のスタイリングが普及する嚆矢となった車種として、自動車史上に名を留めている。

ゼファーは、流線型デザインの流行を慎重に見極めていたエドセルが、量産ボディ外注で関係の深かったコーチビルダーのブリッグス社が手がけた流線型試作車をベースに、ヨットデザイナーから転身した腹心のデザイナー、ユージン・ボブ・グレゴリーに命じ、当時のフォード社で欠落していた中級車の開発にあたって、アバンギャルドさを抑えながら進歩性をアピールできる流線型デザインを施させたものであった(リンカーン系であるゼファーと大衆車のフォードの間に位置する量販中級車としては、ゼファーの流れを汲むデザインの「マーキュリー」が1938年に発売されている)。メカニズムは特装ボディ前提で重量設計シャーシであったモデルKとは異なり、むしろ量産車のフォードの構造の大型化と言うべき平凡なものであったが、それでも高級車らしく、4.3L・110psのV型12気筒エンジンを搭載しており、全体の工作水準も高かった。

ゼファーは、ボディを社外コーチビルダーで限定生産するのではなく、系列コーチビルダーでの鋼鉄製ボディ集中生産で、高級車だが実質的に大衆車・量販中級車同様の大量生産方式を完全導入した早い事例となった(高級車でもある程度大きな生産規模を確保し、大量生産システムを適用することは、限られた例外を除き、21世紀初頭まで一般的となっている)。相前後して限定生産車の性格が強い最高級車モデルKの生産は1940年に終了、他の高級車ブランドでも同様な風潮が生じ、自動車メーカー系でない独立コーチビルダー各社は衰退への道をたどる。

その後エドセルはゼファーのコンセプトを発展させた車の開発に注力、その結果はリンカーンによって作られた中で最も成功した車といえる、初代のコンチネンタルに結実することになる。

コンチネンタルは表向き、エドセルがフロリダでの休暇中に乗るための特装車として開発された。 1938年、ヨーロッパ視察から帰国直後だったエドセルは、試作車のスタイリングを当時のヨーロッパ大陸で進行していたカーデザイン・トレンドを汲む欧州風(コンチネンタル)にするよう命じた。要望はボブ・グレゴリーによって巧みにアレンジメントされ、ゼファーをベースとしてトランク背面にスペアタイヤを立てた、美しいコンバーチブルモデルが仕立てられた。エドセル専用車名目とした背景には、会社の実権を握るヘンリー・フォードが、保守倫理の持ち主で贅沢な特注高級車の市販を好まず、開発を妨害されかねないため、これを避ける意図があったという。

エドセルが流麗な試作車をフロリダで乗り回した所、それを見た多くの富裕な人々がこの試作車の量産を熱望、エドセルはオーダーリストを盾に、父ヘンリーを説き伏せて市販車種とすることに成功した。こうして1939年、リンカーン伝統の車種コンチネンタルが誕生する。コンバーチブルやクーペを擁したコンチネンタルは、かつてのモデルKに代わるイメージリーダーとして、上流人士から非常な人気を集め、工業デザインとしても傑作と評された。

ゼファーとコンチネンタルは、ボブ・グレゴリーなどの優れたデザイナーの手で毎年細かなデザインチェンジを施され、堅調な売上を重ねた。リンカーン育ての親とも言えるエドセル・フォードは1943年に没したが、2つのリンカーン・シリーズは第二次世界大戦による1942年から1945年にかけての中断をはさんで、戦後も生産が続き、1948年まで作られた。


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