Lillian Gordy Carter
1979年1月17日撮影
生誕Bessie Lillian Gordy
1898年8月15日
死没 (1983-10-30) 1983年10月30日(85歳没)
国籍 アメリカ合衆国
職業看護師
政党民主党
配偶者ジェームズ・アール・カーター・シニア (m. 1923年9月)
子供ジミー・カーター、グロリア・カーター・スパン
ベッシー・リリアン・ゴーディ・カーター (Bessie Lillian Gordy Carter、1898年8月15日 - 1983年10月30日)はアメリカの看護師。元アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターの母。 1898年、ジョージア州リッチランド
略歴
リッチランドの郵便局で働く父ジェームズから強い影響を受け、自由主義に目覚めた。父は常に誠心誠意働き、度々黒人労働者と夕食を共にしていた。これは20世紀初頭では非常に珍しいものであり、リリアンもこれを見習った。
ジェームズ・アール・カーター・シニアと出会い、卒業後すぐに結婚した。元アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターを始め、4人の子供がいた。1925年に名目上は看護師を退職したが、実際はナース・プラクティショナー として、夫の店の数百人の従業員やプレーンズ住民の為に働いていた。敬虔なキリスト教徒であったが、定期的に教会に行くことはなかった。地元の教会のシスターがアフリカへの福音宣教を企画すると、その前にアメリカでやるべき事が沢山あると取り乱した。日曜日の朝、家族が礼拝参加している間、自分で聖書研究をしていた。
夫の死後、オーバーン大学で7年半寮母として働いた。その後、ブレイクリーで介護老人福祉施設を経営した。
後に積極行動主義者となり、人種差別廃止運動に身を投じ、ジョージア州プレーンズでアフリカ系アメリカ人への医療活動を行った。 1966年、平和部隊に参加した。 精神鑑定が完了後、3ヶ月の訓練を受け、インドのムンバイから30マイル (48 km)のゴードレージコロニーで働いた。21ヶ月間同地で、ハンセン病患者を支援した。エモリー大学はそれに敬意を表し、リリアン カーター国際看護センター
平和活動
大統領の母として1977年2月17日、ジミー・カーターと
息子ジミーは大統領に立候補する事を決めた時、最初にそれを打ち明けた一人が母である。当初は、民主党の指名候補のダークホースであった。
"Miss Lillian"として知られ、1977年に息子ジミーに関するMiss Lillian and Friends、Away from Home: Letters to my Familyという2冊の本を出版した。後者の本は平和部隊でインドにいた時に、家族に送った手紙を集めたものである。
南部の魅力と現実的性格からマスメディアの評価が高かった。
息子が大統領に立候補するつもりだと言うと、"President of what?"と述べた。
1977年、ルシル・ボール出演のテレビ映画"Lucy Calls the President"に自分自身の役でカメオ出演した。
息子ビリーのビール事業のテープカットに参加するかどうか友人に聞かれ、 "I attended Jimmy's inauguration didn't I?"と述べた。
ユーゴスラビア大統領ヨシップ・ブロズ・チトーの葬儀では米国代表団代表を務めた。
ジミーの就任式の日、息子を誇りに思っているか尋ねられ、おっとりとWhich one?と尋ねた。 1981年1月、息子カーターの大統領退任直後に、乳癌と診断された。1983年4月に治癒した一方、娘ルースが同年9月26日に死亡した。さらに、乳癌、骨腫瘍、膵癌を患い、10月30日に3人の子供たちに看取られ、アメリカス
晩年と死
彼女、3人の子供ビリー、ルース、グロリア、夫ジェームズが膵癌で死亡している。長男ジミーは膵癌になっていないが、2010年に激しい胃の痛みにより、膵癌と誤認された。その為、現在、膵癌治療法の研究の資金支援者、後援者となっている。
脚注^ [1]
関連文献
Lillian Carter with Gloria Carter Spann, Away From Home: Letters to My Family Simon & Schuster New York 1977 ISBN 0-671-22683-5