この項目では、フランスの都市について説明しています。この都市に本拠地を置くプロサッカークラブについては「オリンピック・リヨン」を、同クラブの女子部門については「オリンピック・リヨン (女子)」を、その他の用法については「リヨン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
リヨン
市旗市章
行政
国 フランス
地域圏 (Region)オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏(地域圏首府)
県 (departement)メトロポール・ド・リヨン
郡 (arrondissement)リヨン郡
リヨン(Lyon)は、フランスの南東部に位置する都市で、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏の首府、メトロポール・ド・リヨンの県庁所在地である。 リヨン市の人口は51万人程だが、市街地は郊外にも広がっているため、通常は周辺地域を含めた人口232万人(2017年)が実質的な人口として引用される。都市圏としてはフランス第二の規模を持つ。 ローマ帝国のガリア属州の植民市ルグドゥヌムとして古代から栄えた物資の集散地であり[2]、中世には市の立つ町としてヨーロッパでも有数の交易地として栄えた。また、絹織物の産地としても知られる。旧市街はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。 古くから金融業が盛んで、多くのフランスの銀行の本店が置かれる。永井荷風が横浜正金銀行の社員として滞在したこともある。すでに中世からヨーロッパ各地の手形交換所として機能していた。 1989年以来、国際刑事警察機構(インターポール、ICPO)の本部が置かれている。 1996年にG8サミットの開催地となった。 パリの南東470qに位置している。(東京‐盛岡、東京‐姫路の距離に相当) 北東から流れ込むローヌ川と、北から流れ込むソーヌ川がリヨンの南部で合流する。ソーヌ川の西側は石畳の街並みの残る旧市街で、リヨンの象徴であるフルヴィエール大聖堂の建つフルヴィエールの丘やサン・ジャン大教会がある。 ローヌ川の東側はクレディリヨネタワーを筆頭に近代的な建物が並ぶ地域である。そのさらに東には、新興の住宅地域が広がっている。 紀元前43年に、ローマの植民市ルグドゥヌムとしてルキウス・ムナティウス・プランクスによって建設され、2世紀には皇帝属州ガリア・ルグドゥネンシスの中心都市としてさかえた。ローマ帝国はガリアを獲得したが、その「商業がガリアに入り込む幹線ルートはソーヌ川を含むローヌ河谷であった。そのために、リヨンが商業史的、行政的、そして布教的観点から見て――西ゲルマーニアの諸属州にとっても――中心地の地位を獲得」した[3]。カロリング朝のもとに司教座がおかれ、後の何世紀もの間、大司教に支配され続けた。1245年に第1リヨン公会議、1274年には第2リヨン公会議がひらかれた。14世紀初めフランス王国に併合され、このころから絹織物の交易の一大中心地として発展した。 1463年にルイ11世がジュネーブに対抗して大市を開いた。リヨンの大市はフランスで始めて商事裁判権を獲得した。 16世紀には4つの大市と貨幣市場が催され、多数のイタリア人商人が信用取引を可能にしていた。イタリアというのはフィレンツェ・ルカ・ミラノ・ジェノヴァ各地である。この北イタリア出身の商人はリヨン市民との結婚を通じて市民権を取得し、不動産を買うなどしてリヨンの社会に融けこんでいった。しかしなおイタリア商圏の利益代表者を選出した。大市はそれぞれ2週間開催された。支払金融市場は8日間行われたが、やがて他の大市から自立拡大した。支払金融市場では手形の格付けが行われ、イタリア商人が取引前に相場を決めた。金を借りる商人の信用履歴がノートにまとめられて慣習法として参照された。そこでは記号が用いられたが、“X”は引受可能手形を表し、“SP”は引受拒絶sous protet を示し、“V”は疑わしい場合を意味した。また外国為替相場については、1572年にフィレンツェとルカが、1604年にジェノヴァもそこへ加わってレートを統一した。[4] フランス革命が始まると、反革命派が反乱を起こし、それを鎮圧した共和国軍がリヨンの大虐殺を引き起こした。工業化がはじまった19世紀前半にヨーロッパ最大の絹織物・繊維工業都市となった。第二次世界大戦中は、ドイツ軍に対するレジスタンス運動の拠点のひとつだった。戦後は北アフリカの旧フランス植民地から多くの移民をむかえた。
概要
地理フルヴィエールの丘とサン・ジャン大教会
日本との関わり「リヨンの絹の歴史(フランス語版
1855年にスペインで発生した蚕の病気がヨーロッパ全土に広まり、リヨンの絹織物産業に大打撃を与え、失業者が増大した際、日本の蚕が病いに強いこと、日本でも上質の絹が生産されていることが伝えられ、リヨンから横浜へ生糸と蚕を買い付けに来る人が殺到した。そのため生糸価格は暴騰、粗悪品が出回り、日本の生糸の評判が落ちた。需要拡大のため明治政府はリヨン近郊出身のフランス人技術者ポール・ブリューナを招き、1872年に富岡製糸場が造られた。[5]作家の遠藤周作は、日本人の海外留学生が稀少だった1950年から1953年にかけてリヨン大学に学び、のちの作品でもしばしばこの地を登場させている。 リヨンは西岸海洋性気候と温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分ではCfb/Cfa)との境界にある。内陸部にあるためフランスの他都市より冬の気温が低いが、全体として寒くはなく、1月の平均気温は3.2℃である。
気候