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リュジニャン家
Maison de Lusignan
十字軍国家の王家
キプロス王ジャニュの紋章
国 フランス王国
エルサレム王国
キプロス王国
キリキア・アルメニア王国
創設10世紀
家祖ユーグ1世・ド・リュジニャン
リュジニャン家(フランス語: Maison de Lusignan、英語: House of Lusignan)は、フランス発祥の一族で、エルサレム王国、キプロス王国およびキリキア・アルメニア王国の国王を輩出するとともに、イングランドおよびフランスにおいても大きな影響力を有した。
この一族はリュジニャン近くポワトゥーで10世紀初頭に興った。11世紀の終わりまでには、一族はリュジニャン城を拠点とする最も有名な下級領主となっていた。12世紀後半には、婚姻と相続を通して、分家がエルサレム王国およびキプロス王国を支配することとなり、一方、13世紀初めには本家はラ・マルシュ伯およびアングレーム伯を継承した。十字軍国家の王として、一族はキリキア・アルメニア王国のヘトゥム朝君主と姻戚関係を持つこととなり、14世紀半ばには婚姻を通してこの王国をも支配下におさめた。しかし、後にアルメニア王家はフランスに亡命[1]、キプロス王家が王位継承を主張し[2][3]、最終的には王国はヴェネツィア共和国に併合された。
歴史
発祥ベリー公のいとも豪華なる時祷書、3月: リュジニャン城
ポワティエ近くのリュジニャン城がリュジニャン家の本拠地である。この城はユグノー戦争の時に破壊され、土台だけが残っている。この城の伝説によると、この城は初めに伝説上の水の精メリュジーヌによって建てられたとされる。リュジニャンの城の領主はラ・マルシュ伯となり、アングレーム伯とともにしばしば戦った。 1220年、ユーグ9世の息子であるユーグ10世は、イザベル・オブ・アングレームと結婚し、アングレームを手に入れた。
フランスにおける一族
リュジニャン卿リュジニャン城主の紋章
ユーグ1世(10世紀初頭)
ユーグ2世(967年没)
ユーグ3世(1012年没)
ユーグ4世(1026年没)
ユーグ5世(1060年没)
ユーグ6世(1110年没)
ユーグ7世(1151年没)
ユーグ8世(1173年没)
ウー伯リュジニャン家ウー伯の紋章
ラウル1世(1197年 - 1246)
ラウル2世(1246年 - 1250)
マリー(1250年 - 1260)
ラ・マルシュ伯
ユーグ9世(1219年没)
ラ・マルシュ伯およびアングレーム伯
ユーグ10世(1249年没)
ユーグ11世(1250年没)
ユーグ12世(1270年没)
ユーグ13世
ギー(1308年没)
ヨランド(1314年没)
1308年、ヨランドはリュジニャン、ラ=マルシュ、アングレームおよびフージェールの領土をフランス王フィリップ4世に売り渡した。それらはフランス王領地および主要なアパナージュとなった。
十字軍国家の君主詳細は「ヒッティーンの戦い」、「en:Siege of Jerusalem (1187)」、および「第3回十字軍」を参照ギー・ド・リュジニャン とサラディン。「Saladin en Guy de Lusignan」、ヤン・リーフェンス作、1625年。
1170年代に、エメリー・ド・リュジニャンはイングランド王リチャード1世(この時アキテーヌ公でもあった)により、領地から追放され、エルサレムにたどり着いた。ポワティエ近くのその領地はリュジニャンの本拠地が含まれていた。エメリーはボードゥアン・ディブランの娘エシーヴと結婚し、エルサレム宮廷に出入りするようになった。エメリーはまた、エルサレム王ボードゥアン4世の王母でヤッファおよびアスカロン伯領を有し、シドン領主レジナールと再婚していたアニェス・ド・クルトネーの庇護を得ることができた。エメリーはヤッファにおけるアニェスの軍司令官(Constable/Connetable)に任命され、後にエルサレム王国の軍司令官となった。敵対派の間ではエメリーはアニェスの愛人と噂されたが、真相は不明である。彼の出世は、イブラン家から彼を引き離す目的があったと見られている。イブラン家は、アモーリー1世の従兄弟でエルサレム摂政をつとめた レーモン3世と近しい関係にあった。エメリーの弟ギー・ド・リュジニャンは、1180年のイースターより前にエルサレムを訪れた。兄エメリーの助言によってギーがエルサレム行きを決めたという、エルノールの記述の通りでなければ、いつギーがエルサレムに到着したかは全く不明である。現代の多くの歴史家は、ギーは1180年にはすでにエルサレムである程度の地位を築いていたとしているが、それを裏付ける同時代の記録等はない。ただ、エメリーの成功がギーの社会的、政治的出世を助けたことは確かである。