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リュキア(Lycia, リュキア語では Trm?misa, ギリシア語では Λυκ?α)は古代の地名で、現トルコ南沿岸のアンタルヤ県とムーラ県の地域にあたる。古代にはこの地域には多くの都市国家があり、強く連携していた。また、ローマ帝国の時代にはリュキア属州と名づけられた属州であった。 リュキア地域には、先史時代からリュキア人が住んでいた。リュキア人の祖先は、インド・ヨーロッパ語族のアナトリア語派に属した。リュキア語に近かったのは、紀元前2000年から紀元前1000年過ぎまでアナトリア地方に暮らしていた民族の使うルウィ語(en:Luwian_language
住民
地理リュキアの位置を示す15世紀の地図
リュキアは山が多く、南西の国境地帯は深い森林に覆われている。西から北西にかけてはカリア地方に接し、東はパンピュリア、北東はピシディアに接していた。主要都市はクサントス、パタラ(en:Patara
)、ピナラ(en:Pinara)、オリンポス(en:Olympos)、ミラ(en:Myra)、トロス(en:Tlos)、ファセリス(en:Phaselis)。古代エジプトの記録には、紀元前1250年頃、ヒッタイト帝国と同盟を結ぶアスワ同盟(英語版)の一員にルッカ(Lukka、または Luqqa)という民族がおり、これがリュキア人だと思われる。ヒッタイト帝国が滅んだ後は、シロ・ヒッタイト国家群(英語版)(シリア・ヒッタイト、新ヒッタイト/Neo-Hittite)と呼ばれる独立した都市国家群になった。
ヘロドトスによると、リュキアという地名は、アテナイの王パンディオンの息子であるリュコスに由来する。古代にはこの地域が統一されることはなく、独立した都市国家が強く結びついた状態として続いていた。
ホメロスの著作の中では、リュキア人はトロイアの同盟として何度も登場する。ホメロスの作品イリアスでは、リュキア人の分遣隊は2人の名将、サルペドン(ゼウスとラオダメイアの子)とグラウコス(ヒッポロコスの子)に率いられた。また他のギリシア神話では、リュキア王国を支配していたのは別のグラウコスで、ミノス王の兄弟であってクレタ島から流浪してきたという。サルペドンに従う者はテルミア(Termilae)と呼ばれ、ミルヤン人(Milyans)と呼ばれる人々を征服して王朝を築いた。ミレトスの町(植民地)の建設も合わせて考えると、この神話はクレタ島の人々が小アジアに入植したことを示唆していると思われる。この他にも、英雄ベレロポンが冒険の末にリュキア王イオバテスの王位を継ぐ神話など、ギリシア神話では随所にリュキアが登場する。
リュキアは、紀元前546年にアケメネス朝ペルシア帝国の支配下に入った。このときは、メディア王国のハルパゴスが、アケメネス朝を興した大キュロスの将軍になって、小アジアを征服した。その後はハルパゴスの後継者がリュキアを統治したが、紀元前468年にアテナイが支配権を奪った。紀元前387年に、ペルシア帝国はリュキアの支配権を奪い返した。その後、マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)に征服され、やがてセレウコス朝に支配権が移った。リュキア属州の位置(120年頃のローマ帝国)
紀元前189年、リュキアは共和政ローマの支配下に入った。 紀元前188年のアパメア条約(共和政ローマとセレウコス朝の間の和平条約)によってロドス人の支配下に置かれたが、ローマとアンティゴノス朝マケドニアが争った第3次マケドニア戦争の結果、紀元前168年に独立を認められた。