リャザン
Рязань
リャザンのクレムリン
市旗市章
位置
ロシア内のリャザン州の位置
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯54度36分 東経39度42分 / 北緯54.600度 東経39.700度 / 54.600; 39.700
リャザン(リャザニ;露: Рязань [r???zan?] ( 音声ファイル))は、ロシアの都市である。リャザン州の州都。人口は52万8559人(2021年)。モスクワから南東に196km。鉄道でモスクワ、ウラジーミルなどと結ばれている。高速道路M5が走る。オカ川の右岸、オカ川にトルベジ川が注ぐ地点近くに位置し、オカ川の重要な河港である。条件反射の研究で有名なイワン・パブロフはリャザンの出身。
歴史アレクサンドル・ネフスキー聖堂
もともと、リャザン公国の首都リャザンは、現在のリャザンから南東に50kmほどのオカ川下流に位置していた(スパッスク=リャザンスキー近郊、現在のスターラヤ・リャザーニ Старая Рязаньの村)。フィン・ウゴル系民族のいた地に進出してきたスラヴ人は8世紀頃から現在のリャザンの場所に木造で要塞を築いたとみられる。現在のリャザン・クレムリンのうち最古の部分は12世紀に遡る。
現在のリャザンが記録に初出したのは1095年のことで、当時はペレヤスラヴリ(Переясла?вль, Pereslavl)と呼ばれ、旧リャザン(スターラヤ・リャザーニ)を中心に1078年から存在したリャザン公国の一部だった。ペレヤスラヴリには1095年にはすでに聖ニコライ聖堂が存在しており一帯の精神的中心であったが、この聖堂は1611年の戦争で破壊されている。その他にも聖ボリスとグレブ聖堂など多くの聖堂が建ち、ムーロムとリャザンの主教、およびムーロム=リャザンの大公も屋敷を構えていた。
オカ川沿いに建つ旧リャザンおよびペレヤスラヴリは、北欧方面とヴォルガ川流域・中央アジアを結ぶ交易都市であり、その繁栄は12世紀のアラブの旅行者アブ・ハーミド・アル=ガルナーティー(Abu Hamid al-Gharnati)の旅行記にも記されている。北の森林地帯と南のステップ地帯の境界に位置する街であったが、ハザール、ペチェネグ、ポロヴェツなどステップからの侵入者による襲撃が絶えなかった。またルーシ諸公国同士の争いも多く、1176年にはコロムナをめぐりキエフ大公と対立し、1180年にはペレヤスラヴリがフセヴォロド3世の軍により占領され焼き尽くされ、大公の部下たちや主教までがウラジーミルへと連行された。
13世紀初頭にはリャザン公国にはつかの間の平穏が訪れ、旧リャザンは15,000人、ペレヤスラヴリは2,000人ほどの人口を抱えていた。しかし旧リャザンは1237年12月21日、モンゴル帝国のバトゥのルーシ侵攻によって略奪破壊されたロシア最初の街となり(リャザン包囲戦、および『バトゥのリャザン襲撃の物語』を参照)、これ以後再建は進まず結局立ち直らなかった。リャザン公国の町々もことごとく灰燼に帰したが、ペレヤスラヴリは当時経済的重要性も失われておりほぼ無傷で残った。13世紀末には主教もペレヤスラヴリに戻り、14世紀初頭にはリャザン公国の首都はペレヤスラヴリに移され、ペレヤスラヴリ=リャザンスキー(Переясла?вль-Ряза?нский, Pereslavl-Ryazansky)と呼ばれるようになった。