リベラシオン
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リベラシオン
種別日刊紙
判型コンパクトサイズ
所有者Liberation
編集者Antoine de Gaudemar
設立1973年
政治的傾向社会主義
進歩主義革新
本社所在地 フランス パリ
ウェブサイト ⇒www.liberation.fr

リベラシオン (: Liberation, 愛称: Libe) は、フランス日刊紙1973年ジャン=ポール・サルトル、セルジュ・ジュリ(フランス語版)、フィリップ・ガヴィ(フランス語版)、ベルナール・ラルマン(フランス語版)およびジャン=クロード・ベルニエによりパリで創刊された。おおまかには、現在のリベラシオンの編集見解は、中道左派である。

当初は左派の新聞であったが、特に1980年代と1990年代に何度も交代劇を経て、最近の2005年1月にはエドゥアール・エチエンヌ・ド・ロッチルドが37パーセントの資本を取得している[要出典]。セルジュは欧州憲法 (TCE) に関する国民投票で賛成票を投じようというキャンペーンを張ったが、その結果、相当数の左派読者がリベラシオンから遠ざかった。

2007年現在、リベラシオンは約140,000の部数が発行されている[1]。リベラシオンはまた、日刊紙としてフランスで初めてウェブサイトを開設した。
歴史
第一期 (1973-1981)

リベラシオンはジャン=ポール・サルトルが創立し、1973年2月3日発刊した。サルトルは1974年5月24日まで主筆を勤めた。

新聞は当初、非階層構造的に作製され、編集長から守衛まで給料は同額であった。しかしこれは後に「通常の構造」に変えられた。1980年代初めには、リベラシオンは広告を掲載し、その資金調達に関与を許すようになった。これは、以前には考えられなかったことだったが、その後も中道左派の編集スタンスは維持し続けた。
第二期 (1981-現在)

いく度かの危機を経て、リベラシオンは1981年2月、発刊を一時停止した。紙面の体裁を一新し、セルジュ・ジュリを新しく取締役に据え、5月13日に刊行を再開した。

リベラシオンは革新的な編集路線を明確に自認し、通常は、人種差別反対主義、フェミニズム労働者の権利を支持している。どの政党にも属してはいないが、その理論的根源が1968年にフランスで起きた五月革命にあるため、左翼的傾向にある[2]。共同創設者であり元編集長でもあるセルジュ・ジュリーによれば、リベラシオンは活動家の新聞ではあるが、いかなる特定政党をも支持せず、反権力の動きをとり、一般に右翼政権とも左翼政権とも関係は良くないという。リベラシオンの社説ページ(rebonds)は、多方面からの政治的見解を展開する。リベラシオンのうたう独立性、反権力傾向の例を挙げると、1993年にリベラシオンは、社会党の元大統領フランソワ・ミッテランの違法な盗聴計画をリークしている。

リベラシオンは、文化的・社会的な出来事に対する、型にはまらない見解でも知られている。例えば、犯罪やその他の出来事に対する報道に加え、日々の刑事裁判も年代別に記録した。セルジュ・ジュリが述べたように、「リベラシオンの平衡は、反体制文化政治的急進派の組み合わせに存在する」のである[3]。しかし批評家は、この急進主義は1970年代に衰えており、リベラシオンはもはや真の左派新聞ではないと主張する。2005年の、欧州憲法(TCE)を支持するという主筆の決定は、多くの読者に批判された。これらの読者はのちに、TCEはリベラルに過ぎ、「ヨーロッパ連合」のしっかりした基礎に不可欠の社会的見地が不足している、と見て「支持しない」に投票した。
エドアール・ド・ロッチルドの介入

2005年、リベラシオンは資金繰りが非常に悪くなり、セルジュ・ジュリは、エドゥアール・ド・ロッチルドの出資を受け入れるよう委員会に働きかけた。委員会は2005年1月20日、これに同意した。直後に労働争議がおこった。2005年11月25日、新聞は52人の労働者のレイオフに対して、ストライキを行った[4]。ロッチルドは、編集の決定には干渉しないと約束していたが、経営者としては十分に活発な活動を行っていなかったと決断した[5]。2006年5月には、「Ecrans」(テレビ、インターネット、映画を扱う冊子)および「R」と呼ばれる付録紙を付した「Libe week-end」と呼ばれる週末誌の発刊を発表した(「R」は、同年の9月に中止された)。

2006年6月13日、セルジュ・ジュリは編集スタッフに、エドゥアール・ド・ロッチルドが新聞への増資の条件として、ルイ・ドレフュス(ジェネラル・ディレクター)とジュリー自身が新聞を去るよう要求したと伝えた。ジュリは新聞の存続が自分の判断にかかっていると考え、これを受け入れた。ジャーナリストはショックを受け、翌日には公式声明を発表して、新聞の創設者を讃えるとともに、報道の独立への危惧を訴えた[6]。セルジュ・ジュリは2006年6月30日、リベラシオン紙を去った:

「Le chef d'orchestre que je fus vous dit adieu.
Le journaliste que je suis est infiniment triste de ne plus pouvoir ecrire ici.
Le lecteur que je vais demeurer vous dit a tous au revoir.

かつての指揮者としての私は、あなた方に別れを告げる。
現役ジャーナリストとしての私は、もうここに書けないことを限りなく悲しんでいる。
これからも変わらず読者であり続ける私は、あなた方皆に再会を約そう。[7]

リベラシオン初の管理部長、ベルナール・ラユモンとエドゥアール・ド・ロッチルドとの論争は、ル・モンド紙上で起こった。2006年7月4日付のコラムで、ジュリが辞めたことで「書くことが何かを意味した」時代は終わった、と主張した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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