リブレット(libretto, 複数:libretti)は、オペラ、オペレッタ、仮面劇(マスク)教会および世俗オラトリオ、カンタータ、ミュージカル、バレエといった長時間にわたる音楽作品で使われるテキスト、つまり台本のこと。librettoはイタリア語で、libro(本)に指小辞を付けた派生語である。リブレットにはすべての歌詞とト書きが含まれる。さらにこの言葉は、ミサ、レクイエム、教会カンタータといった典礼作品の歌詞を指すこともある。 17世紀、18世紀のオペラ、オラトリオ、カンタータの台本・歌詞は、普通、作曲家とは別の人間が書いていて、それも高名な詩人であることが多かった。リブレット作者(リブレッティスト、librettist)の中でも最も有名だった一人がピエトロ・メタスタージオで、大勢の作曲家がその歌詞に曲をつけている。他には、モーツァルト(3つのオペラ)をはじめとする多くの作曲家に台本を提供したロレンツォ・ダ・ポンテがいる。19世紀ではウジェーヌ・スクリーブが有名で、マイアベーアと長きにわたって共作したほか、オベール、ベッリーニ、ドニゼッティ、ロッシーニ、ヴェルディに台本を提供した。アンリ・メイヤック 台本・歌詞は常に音楽の前に書かれるわけではない。たとえば、グリンカ、セローフ、リムスキー=コルサコフ、プッチーニ、マスカーニといった作曲家たちはまず歌詞のない楽節を書き、後から台本作家たちが歌の旋律に詞をあてはめた(これは20世紀アメリカのポピュラー音楽でも行われていて、たとえばリチャード・ロジャースとローレンツ・ハートのコンビであるロジャース&ハートがそうだった。しかし、後にロジャースがオスカー・ハマースタイン2世と組んだ時(ロジャース&ハマースタイン)は詞が先に書かれるのが普通だった)。 作曲家の中には自分で台本を書く者もいた。その中でも有名なのが、ドイツの伝説や歴史を元に、叙事詩的主題としたオペラ・楽劇の台本を書いたリヒャルト・ワーグナーである。アルベルト・ロルツィングやアルノルト・シェーンベルクらも同様である。またアルバン・ベルクもゲオルク・ビュヒナーの戯曲『ヴォイツェック』を元にオペラ『ヴォツェック』の台本やフランク・ヴェーデキント原作の『ルル』を自分で書いた。 時には作曲家と共同に近い形で台本が書かれることもある。リムスキー=コルサコフと台本作家ウラジーミル・ベルスキーの関係がそうである。ミュージカルでは、音楽(music)、歌詞(lyrics)、台詞やト書きといった脚本(book)をそれぞれ別の作家が書くこともありうる。たとえば『屋根の上のバイオリン弾き』は、作曲ジェリー・ボック
代表的なリブレット作者
作曲家とリブレット作者の関係
台本を作る過程での他の問題は、舞台や映画の台詞劇と同じである。まず、テーマの選択や提案の段階があり、それからシナリオの形式で本筋の草案が練られる。ブロードウェイ・ミュージカルでは試験興業を行うなどして、必要ならば改訂し、また、上演場所の観客に合わせた変更も行われる。後者の例では、たとえばワーグナー『タンホイザー』のオリジナル版(ドレスデン版、1845年)がパリ上演の時に改訂(パリ版、1861年)された。 オペラの台本はその始まり(1600年頃)から韻文で書かれていて、それは19世紀まで続いた。台詞を含む音楽劇では、歌詞の韻文と台詞が互い違いになるのが一般的だった。19世紀後期以降、散文または自由詩で書くオペラ作曲家たちが現れた。たとえば、ジョージ・ガーシュウィンの『ポーギーとベス』のほとんどのレチタティーヴォは、デュボース・ヘイワード
文学的特徴
一方、ミュージカルの台本は(歌詞を除いて)たいてい散文で書かれている。もしそのミュージカルが戯曲からの翻案である場合、台詞は元々あったものを借りてくる。『オクラホマ!』はリン・リグズ(英語版)『Green Grow the Lilacs』の、『回転木馬』はモルナール・フェレンツ『リリオム』の、『マイ・フェア・レディ』は逐語的にジョージ・バーナード・ショー『ピグマリオン』の、1954年版のミュージカル『ピーター・パン(英語版)』はジェームス・マシュー・バリー『ピーター・パン』の台詞を、それぞれ使っている。 最初にイタリア語でオペラが書かれたことから、18世紀を通じてヨーロッパでは(フランスを除いて)イタリア語の使用がこのジャンルでは支配的だった。ロシアでは19世紀になっても、サンクトペテルブルクにはイタリア・オペラ一座があり、自国語ロシア語のレパートリーの出現を求められていた。1800年以前の例外としては、ヘンリー・パーセルの諸作品、バロック期のハンブルクのドイツ語オペラ、18世紀にはバラッド・オペラ、ジングシュピールなどがある。
言語と翻訳