リヒャルト・ワーグナー
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この項目では、音楽家について説明しています。その他のワーグナー姓の人物については「ワグナー」をご覧ください。

リヒャルト・ワーグナー
Richard Wagner
1871年

基本情報
出生名Wilhelm Richard Wagner
別名楽劇王
生誕 (1813-05-22) 1813年5月22日
出身地 ザクセン王国 ライプツィヒ
死没 (1883-02-13) 1883年2月13日(69歳没)
イタリア王国 ヴェネツィア
ジャンルロマン派
職業作曲家指揮者
活動期間1832年 - 1883年
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ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(ドイツ語: Wilhelm Richard Wagner, ドイツ語: [???ca?t ?va??n?] ( 音声ファイル)、1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、19世紀ドイツ作曲家指揮者思想家。名はワグナーやヴァ(ー)グナーとも書かれる[* 1]

ロマン派オペラの頂点であり、また楽劇の創始者であることから「楽劇王」の別名で知られる[要出典]。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。
生涯
幼少期ライプツィヒのワーグナーの生家

1813年ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。父カール・フリードリヒ・ワーグナー(Carl Friedrich Wagner (1770?1813))は警察で書記を務める下級官吏であったが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出された。カールはリヒャルトの生後まもなく死去する。母ヨハンナ・ロジーネ・ワーグナー(Johanna Rosine Wagner)はカールと親交があった俳優ルートヴィヒ・ガイヤー(ユダヤ人・実父説もあり)と再婚した[1]。ワーグナ一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼時から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てている。特に一家とも親交があった作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーから強い影響を受ける。1817年にドレスデン宮廷歌劇場音楽監督に就任したウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人物で、生涯敬意を払い続けた数少ない人物だった[2]。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志す。同時に劇作にも関心を持ち、のちに独自の芸術を生み出す原動力となる。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められる。1830年10月、ベートーヴェンの『交響曲第9番』をピアノ独奏用に編曲し、マインツのショット社に刊行を依頼するも断られてしまう。1831年の復活祭の折りにライプツィヒを訪れたベルンハルト・ショットに楽譜を手渡すとともに再度依頼するも、編曲版には不備も多く出版には至らなかった[3][* 2]。当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄した。

1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学んだが数年後に中退する。また、聖トーマス教会カントルトーマスカントル)だったテオドール・ヴァインリヒに対位法作曲の指導を受けた[4]
青年期最初の妻ミンナ・プラーナー

1832年に『交響曲 ハ長調』(WWV 29)を完成させたと時を同じくして、最初のオペラ『婚礼』(WWV 31)を作曲した。1833年ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。その後指揮者に飽き足らず、オペラ作曲家を目指したが芽が出ず、貧困に苦しんだ。

青年ドイツ派のハインリヒ・ラウベと知り合い、1834年、最初の論文『ドイツのオペラ』を匿名でラウベが編集する流行界新聞に発表した[5]。この論文では歌唱美を持つイタリア音楽や、イタリアオペラの欠点を補ったグルックなどのフランス音楽に比して、ドイツ音楽は学識的(gelehrt)であり、民衆の声や真実の生活からかけ離れており、「ドイツなど世界のひとかけらにすぎない」と感じており、若いワーグナーは青年ドイツ派の影響を受けて、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じていた[6]

1834年マクデブルクのベートマン劇団の指揮者となった際、女優のミンナ・プラーナーと出会い、恋仲となる。

1836年に『恋愛禁制』(WWV 38)を作曲したがベートマン劇団が解散。ミンナがケーニヒスベルクの劇団と契約したため彼女についてケーニヒスベルクへ向かい、同地で結婚した[7]。しかし、二人の関係は不安定で、ワーグナーは独占欲が強く、他方のミンナは幾度も恋人と駆け落ちし、1837年5月にミンナは姿を消した[7]1837年にはドレスデン、さらに帝政ロシアリガ(現在のラトビア)と、劇場指揮者をしながら転々とした。ドレスデンでエドワード・ブルワー=リットンの小説『ローマ最後の護民官リエンツィ』を翻訳で読み、台本スケッチにした[8]。1839年3月、リガの劇場を解雇された[9]。7月、債権者から逃れたワーグナー夫妻はロンドンへ密航した[10]。この時に暴風に襲われ、『さまよえるオランダ人』(WWV 63)の原型となった[10]
パリ時代 (1839-1842)ワーグナーを庇護したユダヤ人作曲家マイアベーア

1839年、ロンドンからドーバー海峡を渡り、船上で婦人からパリで成功したユダヤ人作曲家ジャコモ・マイアベーアへの紹介状を書いてもらった[11]。一時ブローニュ=シュル=メールでオペラ『リエンツィ』(WWV 49)を完成させた[11]

銀行家の息子だったマイアベーアはパリで1824年に『エジプトの十字軍』を成功させ、『悪魔のロベール』(1831年)、サン・バルテルミの虐殺に基づくグランド・オペラユグノー教徒』(1836年)の大ヒットなどで名声を博し、1842年にはベルリン宮廷歌劇場音楽監督に就任した。マイアベーアの『預言者』(1849年)では最初の10回の収入だけで10万フラン、さらに版権で44000フランを獲得したうえに、レジオンドヌール勲章、ザクセン騎士功労章、オーストリア・フランツ・ヨーゼフ騎士団騎士勲章、ヴュルテンベルク上級騎士修道会勲章、エルネスティン家一級指揮勲章、イエナ大学名誉博士号、ベルリン芸術アカデミー顧問などの名誉を獲得した[12]

1839年9月、マイアベーアはオペラ座支配人への推薦を引き受けてくれたため、ワーグナー夫妻は感激した[13]。しかし、10月には推薦が効き目なく、希望は幻滅へと変わり、マイアベーアへの邪推、そしてパリ楽壇、ユダヤ人を敵視するようになっていった[14]。この頃、ワーグナーは生活費の工面や『リエンツィ』や『さまよえるオランダ人』の上演の庇護をマイアベーアから受けていた[15]。ワーグナーもマイアベーアはグルック、ヘンデル、モーツァルトと同じくドイツ人であり、ドイツの遺産、感情の素朴さ、音楽上の新奇さに対する恥じらい、曇りのない良心を保持しており、フランスとドイツのオペラを美しく統一した作曲家であると称賛した[15][16]。また、マイアベーアは多くのユダヤ人がキリスト教に改宗する時代において、改宗を拒否した唯一の例であった[17]。一方でマイアベーアは聴衆のほとんどは反ユダヤ主義であるとハイネへの手紙で述べている[15]

マイアベーアの紹介で、ユダヤ人出版商人シュレザンジューから編曲や写譜の仕事を周旋してもらい、また雑誌への寄稿を求められて、小説『ベートーヴェン巡礼』を連載した[18]。パリではドイツ人ゴットフリート・アンデルス、ザームエル・レールス、画家キーツと親交を結び、プルードンフォイエルバッハの思想を知った[19]

1840年2月の手紙でワーグナーは、マイアベーアを民族の偏見をなくし、言語による境界を取り払う音楽として称賛している[12]

1840年の「ドイツの音楽について」でワーグナーは、ドイツ国はいくつもの王国や選帝侯国、公国、自由帝国都市に分断されており、国民が存在しないために音楽家も地域的なものにとどまっていると嘆いたうえで、しかしドイツはモーツァルトのように、外国のものを普遍的なものにつくりかえる才能があると論じた[16]。同年、反フランス的なドイツ愛国運動「ライン危機」がドイツで広がり愛国歌謡が作られたが、ワーグナーはこれを嫌悪した[20]。ライン危機とは、1840年にフランスのティエ?ル内閣がライン川を国境とすべきだとドイツに要求したことに対する反フランス的なドイツの愛国運動のことであり、「ドイツのライン」「ラインの守り」「ドイツの歌」などの愛国歌謡が作られたが、ワーグナーは共感しなかった[20]

偽名で発表したエッセイ「ドイツ人のパリ受難記」(1841)では「パリでドイツ人であることは総じてきわめて不快である」と書き、ドイツ人は社交界から排除されているのに対して、パリのユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる、と書いた[16]。ワーグナーの身近にいたマイアベーアは事実、偽客(サクラ)を動員したり、ジャーナリストを買収するなどしており、ハイネもそうして獲得したマイアベーアの名声に対して「金に糸目をつけずにでっちあげた」と批判していた[16]1842年頃には、ワーグナーはシューマンへの手紙でマイアベーアを「計算ずくのペテン師」と呼ぶようになった[15]

この頃、ハイネから素材を採り『さまよえるオランダ人』(WWV 63)を作成した[21]。ワーグナーはハイネと親しく、ハイネがユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネを『ベルネ覚書』で批判すると、ワーグナーはハイネを擁護した[21]

パリでワーグナーが認められることはなかった一方で、『リエンツィ』(WWV 49)は1841年6月に故郷であるザクセン王国・ドレスデンで完成したばかりのゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)での上演が決定し、1842年4月にワーグナーはパリで認められなかった失意のうちに、『リエンツィ』の初演に立ち会うためにザクセン王国ドレスデンへ戻った[15]


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