リヒャルト・ワーグナー
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、音楽家について説明しています。その他のワーグナー姓の人物については「ワグナー」をご覧ください。

リヒャルト・ワーグナー
Richard Wagner
1871年
基本情報
出生名Wilhelm Richard Wagner
別名楽劇王
生誕 (1813-05-22) 1813年5月22日
出身地 ザクセン王国 ライプツィヒ
死没 (1883-02-13) 1883年2月13日(69歳没)
イタリア王国 ヴェネツィア
ジャンルロマン派
職業作曲家指揮者
活動期間1832年 - 1883年
ワーグナーのサイン.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(ドイツ語: Wilhelm Richard Wagner, ドイツ語: [???ca?t ?va??n?] ( 音声ファイル)、1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、19世紀ドイツ作曲家指揮者思想家。名はワグナーやヴァ(ー)グナーとも書かれる[* 1]

ロマン派オペラの頂点であり、また楽劇の創始者であることから「楽劇王」の別名で知られる[要出典]。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。
生涯
幼少期ライプツィヒのワーグナーの生家

1813年ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。父カール・フリードリヒ・ワーグナー(Carl Friedrich Wagner (1770?1813))は警察で書記を務める下級官吏であったが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出された。カールはリヒャルトの生後まもなく死去する。母ヨハンナ・ロジーネ・ワーグナー(Johanna Rosine Wagner)はカールと親交があった俳優ルートヴィヒ・ガイヤー(ユダヤ人・実父説もあり)と再婚した[1]。ワーグナ一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼時から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てている。特に一家とも親交があった作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーから強い影響を受ける。1817年にドレスデン宮廷歌劇場音楽監督に就任したウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人物で、生涯敬意を払い続けた数少ない人物だった[2]。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志す。同時に劇作にも関心を持ち、のちに独自の芸術を生み出す原動力となる。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められる。1830年10月、ベートーヴェンの『交響曲第9番』をピアノ独奏用に編曲し、マインツのショット社に刊行を依頼するも断られてしまう。1831年の復活祭の折りにライプツィヒを訪れたベルンハルト・ショットに楽譜を手渡すとともに再度依頼するも、編曲版には不備も多く出版には至らなかった[3][* 2]。当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄した。

1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学んだが数年後に中退する。また、聖トーマス教会カントルトーマスカントル)だったテオドール・ヴァインリヒに対位法作曲の指導を受けた[4]
青年期最初の妻ミンナ・プラーナー

1832年に『交響曲 ハ長調』(WWV 29)を完成させたと時を同じくして、最初のオペラ『婚礼』(WWV 31)を作曲した。1833年ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。その後指揮者に飽き足らず、オペラ作曲家を目指したが芽が出ず、貧困に苦しんだ。

青年ドイツ派のハインリヒ・ラウベと知り合い、1834年、最初の論文『ドイツのオペラ』を匿名でラウベが編集する流行界新聞に発表した[5]。この論文では歌唱美を持つイタリア音楽や、イタリアオペラの欠点を補ったグルックなどのフランス音楽に比して、ドイツ音楽は学識的(gelehrt)であり、民衆の声や真実の生活からかけ離れており、「ドイツなど世界のひとかけらにすぎない」と感じており、若いワーグナーは青年ドイツ派の影響を受けて、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じていた[6]

1834年マクデブルクのベートマン劇団の指揮者となった際、女優のミンナ・プラーナーと出会い、恋仲となる。

1836年に『恋愛禁制』(WWV 38)を作曲したがベートマン劇団が解散。ミンナがケーニヒスベルクの劇団と契約したため彼女についてケーニヒスベルクへ向かい、同地で結婚した[7]。しかし、二人の関係は不安定で、ワーグナーは独占欲が強く、他方のミンナは幾度も恋人と駆け落ちし、1837年5月にミンナは姿を消した[7]1837年にはドレスデン、さらに帝政ロシアリガ(現在のラトビア)と、劇場指揮者をしながら転々とした。ドレスデンでエドワード・ブルワー=リットンの小説『ローマ最後の護民官リエンツィ』を翻訳で読み、台本スケッチにした[8]。1839年3月、リガの劇場を解雇された[9]。7月、債権者から逃れたワーグナー夫妻はロンドンへ密航した[10]。この時に暴風に襲われ、『さまよえるオランダ人』(WWV 63)の原型となった[10]
パリ時代 (1839-1842)ワーグナーを庇護したユダヤ人作曲家マイアベーア

1839年、ロンドンからドーバー海峡を渡り、船上で婦人からパリで成功したユダヤ人作曲家ジャコモ・マイアベーアへの紹介状を書いてもらった[11]。一時ブローニュ=シュル=メールでオペラ『リエンツィ』(WWV 49)を完成させた[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:170 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef