リヒャルト・タウバー
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Richard Tauber
リヒャルト・タウバー
英国アーダス・タバコ社のシガレットカード 1935年
基本情報
出生名Richard Denemy
生誕 (1891-05-16) 1891年5月16日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国 リンツ
死没 (1948-01-08) 1948年1月8日(56歳没)
イギリス ロンドン
学歴ホッホ音楽院
ジャンルクラシック音楽
職業オペラ歌手、俳優
著名使用楽器
声楽
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リヒャルト・タウバー(ドイツ語英語: Richard Tauber, 1891年明治24年〉5月16日 - 1948年昭和23年〉1月8日)はオーストリア=ハンガリー帝国生まれで英国に帰化[1]したオペラ歌手(テノール)、俳優。 彼はマスコミやスポンサーから「ベルカントの王」という名を与えられた。
生涯当時妻だったカルロッタ・タウバー=ヴァンコンティと(1928年11月)

リヒャルト・タウバーは、スーブレット(快活で初々しい若い娘を演じる役柄のソプラノ歌手)であるエリーザベト・デネミー(カール・セイファースの未亡人)と、改宗したユダヤ人俳優でケムニッツのオペラ芸術監督[2]のリヒャルト・タウバー(ドイツ語版)の隠し子である。出生地はリンツのホテル・ツム・シュヴァルツェン・ベーレン(Hotel Zum schwarzen Baren)であった。洗礼台帳に記載された名はRichard Denemy。1913年(大正2年)、父親との養子縁組と改名がなされた。母親の仕事の都合で、彼はリンツで里親のもとで育ち、同地の小学校に通った。彼は生まれつきローマ・カトリックであり(リンツで洗礼を受けた)、母親はローマ・カトリック、父親は10代の頃にローマ・カトリックに改宗していた。彼自身は自分をカトリック教徒だと思っており、父方の祖父母がユダヤ人であったという理由だけで、自分が国家社会主義者によって迫害されるということに生涯納得できなかった[3]

1903年(明治36年)、12歳のとき、彼はヴィースバーデンの父親のもとに身を寄せ、その後5年間、同地のギムナジウムに通った。その後、1908年(明治41年)から1910年(明治43年)までフランクフルト・アム・マインホッホ音楽院ピアノ作曲を学ぶ。その後、指揮も学んだ。1911年(明治42年)から1912年(明治43年)にかけて、彼は教師の勧めでフライブルク・イム・ブライスガウのカール・バイネス(ドイツ語版)に師事し、歌の訓練を受けた。1912年5月12日、「コンコルディア」歌劇団のソリストとしてデビューを果たした。

ほぼ1年後の1913年3月2日、彼は初めてオペラで歌った。ケムニッツ劇場でモーツァルト魔笛』タミーノでデビューしたのである。この年、父親の養子となり、正式には「デネミー=タウバー」という名になったが、自分では「タウバー」としか名乗らなかった。1913年末、タウバーはドレスデンのオペラ座で王室御用達のオペラ歌手としての契約を得た。この契約を終えるのは1918年(大正7年)であった。

この間、タウバーはカール・マリア・フォン・ウェーバー魔弾の射手』マックス、ヴィルヘルム・キーンツル『エヴァンゲリマン』マティアス、ジュゼッペ・ヴェルディ椿姫』アルフレードなど、多くの曲を歌った。

1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけては、タウバーはベルリン国立歌劇場と契約を結び、そこからウィーン・フォルクスオーパーに移籍し、再びベルリンに戻ってきた。1921年(大正10年)にはフランツ・レハールオペレッタに初出演し、ザルツブルクではレハール『ジプシーの恋(ドイツ語版)』を歌った。このように国外に多数出演していたため、ドレスデンでは不仲となり、タウバーはウィーンに向かった。

1922年(大正11年)から1925年(大正14年)にかけて、タウバーはモーツァルトのオペラを見事に歌いこなし、友人のフランツ・レハールは彼のオペレッタの多くでタウバー向けのテノールパートを書いた。この時期、タウバーのザルツブルク音楽祭でのレギュラー出演が始まった。1922年には、ザルツブルク音楽祭の最初のオペラ公演で、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』ドン・オッターヴィオを演じた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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