リパンティトランの戦い
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リパンティトランの戦い
Battle of Lipantitlan
テキサス革命

時1835年11月4日
場所現在のテキサス州サンパトリシオ近く、リパンティトラン砦
結果テクシャンの勝利

衝突した勢力
テクシャン反乱軍 メキシコ
指揮官
アイラ・ウェストオーバーニコラス・ロドリゲス
戦力
60ないし70名90名
被害者数
負傷1名戦死3–5名
負傷14–17名

リパンティトランの戦い(リパンティトランのたたかい、: Battle of Lipantitlan、またはニュエセス・クロッシングの戦い、: Battle of Nueces Crossing[1])は、テキサス革命の間に起きた3回目の小競り合いである。1835年11月4日、メキシコ軍とテクシャン反乱軍の間で戦われた。ゴリアドの戦いでテクシャンが勝利した後、テキサスにはサンパトリシオ近くのリパンティトラン砦と、サンアントニオ・デ・ベハル(現在のテキサス州サンアントニオ)のアラモ伝道所と、2つのメキシコ軍駐屯地が残っているだけだった。テクシャンの指揮官フィリップ・ディミットは、リパンティトラン砦がメキシコ軍にゴリアドを取り返すための拠点として使われることを怖れ、またそこで同朋の2人が投獄されていることに怒り、副官のアイラ・ウェストオーバーにリパンティトラン砦の占領を命じた。

リパンティトラン砦指揮官ニコラス・ロドリゲスは、ゴリアドのテクシャン部隊に嫌がらせを行うよう命令されていた。ロドリゲスがその配下の大半を率いて遠征に出た間に、ウェストオーバー隊がサンパトリシオに到着した。11月3日、地元住民がメキシコ守備兵に降伏を勧告し、翌日テクシャンが砦を取り壊した。テクシャンがゴリアドに戻るために水で膨れあがったニュエセス川を越えているときにロドリゲス隊が戻ってきた。メキシコ軍が攻撃したが、テクシャンのライフル銃の方が射程が長かったために、直ぐに後退を強いられた。この戦闘でテクシャン1人が負傷したが、メキシコ軍は5名が戦死し、14ないし17名が負傷した。

メキシコ軍負傷兵はサンパトリシオで治療を受けることを認められ、残った兵士はコアウイラ州マタモロスまで撤退した。これでテクシャンはメキシコ湾岸を完全に制圧したので、サンアントニオ・デ・ベハルに駐屯するメキシコ軍は陸路によってしか援軍や物資の供給を受けられない状態となった。歴史家のビル・グローンマンは、これによってベハル包囲戦でメキシコ軍が敗北することに繋がり、テキサスからメキシコ軍を排除することになったと考えている。リパンティトラン砦の跡は現在テキサス州の歴史史跡になっている。
背景「メキシコ領テキサス」を参照

リパンティトラン砦はメキシコ領テキサスのメキシコ湾岸、ニュエセス川の西岸にあった昔の宿営地に建設されていた。この場所は回遊型のリパン・アパッチ族が占有し、定期的に訪れていた[2]。アパッチ族がこの地域を捨てた後、その宿営地はメキシコとテキサス開拓地の間を行き来する伝道師、軍隊、交易業者が利用することが多かった[3][4]。1825年あるいは1826年、メキシコ当局がこの宿営地に間に合わせの砦を建設し、リパン・アパッチ族に因んでリパンティトランと名付けた[2][3]。テクシャンのジョン・J・リンに拠れば、この砦は「単層の盛り土をレールフェンスで崩れないように固めたものであり、おそらくは2級の豚の囲いに耐えられるようなものだった」と言っていた[5]。土盛りの回りに大きな溝があった。溝の外にはアドベと木でできた小屋があり、士官とその家族のためのものだった[4]

タマウリパスの第2騎兵中隊から80名ないし125名の兵士が砦を守っていた[4]。彼らは関税を徴収し[6]、約3マイル (5 km) 南にあるアイルランド系とメキシコ人植民地人の小さな開拓地、サンパトリシオを守っていた[1][4]。さらに小さな守備隊がコパーノ湾とレフュリオに居り、大きな部隊がゴリアドのプレシディオ・ラ・バヒアに駐屯していた[7]

“この国の子供となった者達がその国に対する義務を忘れ、法に従わずに自らの意志で生きていこうという望みを推し進めている。彼等全てを力で押さえつけること[8]


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