リパブリック讃歌
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リパブリック讃歌
The Battle Hymn of the Republic
1862年に発表されたリパブリック讃歌の表紙
作詞ジュリア・ウォード・ハウ(1861)
作曲ウィリアム・ステッフ(1856)、編曲 ジェームズ・グリーンリーフ(英語版)、 C.ホール、C.マーシュ(1861)

試聴
エリック・リチャーズによってジャズ・アレンジされたリパブリック讃歌のアメリカ空軍軍楽隊(英語版)による演奏。 noicon
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リパブリック讃歌(リパブリックさんか、原題: The Battle Hymn of the Republic)は、アメリカ合衆国民謡愛国歌賛歌であり、南北戦争での北軍の行軍曲である。作詞者は詩人のジュリア・ウォード・ハウであり、軍歌の作詞を女性が務めた珍しい事例である[1]。原題を日本語で直訳すると「共和国の戦闘讃歌」となる[1]
経緯
やあ、兄弟達よ、我らに会わないか

元々のメロディはウィリアム・ステッフによって1856年に作曲された賛美歌「やあ、兄弟達よ、我らに会わないか(英語: Say, brothers, will you meet us)」だったと言われている[1]。ただし、この曲とステッフとの関連性については自身が生前に作曲者として名乗り出なかった点、他の音楽制作に関わらなかった点、ステッフ本人の書き残した手紙以外に物的証拠が存在しない点などから関与を疑問視されている[2]

ステッフによる作曲という説は1880年代に登場したものであり[3]、英文学者のブランダー・マシューズ(英語版)が1887年に『センチュリー・マガジン(英語版)』誌で紹介したことを契機に広まった[3]。マシューズによると1856年にサウスカロライナ州チャールトンにある消防団から「困ったことがあれば、我らに会わないか(英語: Say, bummers, will you meet us)」という歌詞に合う曲作りを依頼され、その曲に新たに歌詞が付け加えられるなどして後に讃美歌「やあ、兄弟達よ、我らに会わないか」へと変化したとしている[3]。一方、ジャーナリストのボイド・スタドラーの調査では、1855年または1856年頃にフィラデルフィアのグッドウィル消防隊からバルティモアのリバティ消防隊を歓迎するための歌の作成を依頼され「困ったことがあれば、我らに会わないか」に曲をつけた、とステッフ自身が発言したという[2]

原詩日本語訳
Say, brothers, will you meet us (×3)On Canaan's happy shore.(Chorus)Glory, glory, hallelujah (×3)For ever, evermore!やあ、兄弟たちよ、私たちと会わないか(×3)カナンの幸福の岸辺で(コーラス)栄光あれ、栄光あれ、神を称えよ(×3)永遠に、永久に!

一部の研究者はステッフが作曲する以前に黒人の伝統音楽にルーツを持つとする説を支持している[4] 。このほかジョージア州に住むアフリカ系アメリカ人の婚礼の際に歌われていたとする説[5]、またはスウェーデンの酒宴の歌として生まれたものがイギリスに伝播し船乗りの労働歌として定着したとする説がある[6]。ルーツを特定することは困難であるが様々な文化と民族から影響がもたらされたことは確かで、当時の音楽制作における復興運動の影響もあり自由な作曲が成された[7]

歌詞については1858年に出版された『ユニオン・ハープとリヴァイヴァル聖歌隊員』という讃美歌集が内容を確認することが可能な初出文献とされる[8]
ジョン・ブラウンの屍

「やあ、兄弟達よ、我らに会わないか」のメロディは、狂信的な奴隷制度廃止論者のジョン・ブラウンの功績を称える唄「ジョン・ブラウンの屍(英語版)」に引用された[1][9]。ブラウンは、奴隷所有者に対し武力攻撃を仕掛ける過激な人物で、1859年バージニア州の連邦武器庫の襲撃に失敗し捕えられ、同年12月2日に絞首刑に処せられた。この後、ブラウンの信奉者たちによって歌が作られ、1861年4月の南北戦争開戦以来、北軍の非公式な行軍曲として兵士によって盛んに唄われた[9][10]

原詩日本語訳
John Brown's body lies a-mouldering in the grave; (×3)His soul's marching on!(Chorus)Glory, glory, hallelujah! (×3)His soul's marching on!ジョン・ブラウンの体は墓の中で朽ちつつ横たわる(×3)彼の魂は進み続ける!(コーラス)栄光あれ、栄光あれ、神を称えよ(×3)彼の魂は進み続ける!

キンボールによる証言

1890年、南北戦争の際にボストンの第2歩兵大隊(通称、タイガース大隊)に所属していたジョージ・キンボールは「ジョン・ブラウンの体は」の成立の経緯について雑誌『ニューイングランド・マガジン(英語版)』に次の様に記した[11]。我々の大隊には一人の陽気なスコットランド人がおり、名前はジョン・ブラウンといった。彼は古き英雄と同姓同名であったことから親しい同僚たちから頻繁にからかわれていた。もし彼が集合に遅れたり作業に手間取った場合には仲間から「早く来いよ年老いた同士。奴隷を自由にするための手助けをする気があるなら速やかに作業に取り組まなければな」や「彼はジョン・ブラウンにはなれない。なぜならジョン・ブラウンは亡くなったのだから」といった表現で迎えられることが恒例となっていた。そして何人かのお調子者はジョン・ブラウンが亡くなったことを強調するように厳粛かつゆっくりとした口調で「その通りさ、哀れなジョン・ブラウンは墓の中で朽ち果てたのさ」などの台詞で応じた[11]

キンボールによると、これらの言葉が兵士の間の決まり文句となり上記した「やあ、兄弟達よ、我らに会わないか」のメロディに合わせて歌われるようになり、いくつかの変遷を経て「ジョン・ブラウンの体は」が完成した[12]。1861年5月12日に大隊本部のあるウォーレン砦(英語版)で新兵訓練のための国旗掲揚式を行った際に公式の場において初の演奏がなされ、同年5月または6月から7月にかけて楽譜が出版されたことを契機に流行歌となった[12]。なお、この歌で取り上げられた第2歩兵大隊のジョン・ブラウン軍曹は1862年6月6日バージニア州にあるラパハノック川(英語版)を行軍中に水死した[13]
発展

「ジョン・ブラウンの体は」はやがてボストン第2歩兵大隊のジョン・ブラウン軍曹ではなく、奴隷廃止論者のジョン・ブラウンとの結びつきを強めると新たなバージョンの歌詞が作られるようになった[13]。その中で最も精巧な歌詞はウィリアム・ウェストン・パットン(英語版)によって作詞され1861年10月に『シカゴ・トリビューン』紙に発表された[14]。パットンは南北戦争当時は牧師を務めていたが、後にワシントンD.C.ハワード大学の学長となった人物である[14]

原詩日本語訳
Old John Brown’s body lies moldering in the grave,While weep the sons of bondage whom he ventured all to save;But tho he lost his life while struggling for the slave,His soul is marching on.(Chorus)Glory, glory, hallelujah! (×3)His soul's marching on!ジョン・ブラウン爺さんの体は墓の中で朽ちつつ横たわり彼が救おうと試みた、とらわれの息子たちはすすり泣く彼は奴隷のために苦心し、命を落としたが、彼の魂は進み続ける(コーラス)栄光あれ、栄光あれ、神を称えよ!(×3)彼の魂は進み続ける!

リパブリック讃歌の誕生

1861年11月18日、詩人のジュリア・ウォード・ハウは軍事衛生委員を務めていた夫のサミュエル・グリドリー・ハウ(英語版)と共にエイブラハム・リンカーン大統領からワシントンD.C.ポトマック川周辺に駐留していた北軍の演習に招待された[15][16]


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