リパブリック・ピクチャーズ
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リパブリック・ピクチャーズ(Republic PicturesまたはRepublic Entertainment, Inc.)は、アメリカ合衆国の映画製作・配給会社である。

B級映画西部劇連続活劇に特化している。代表作はオーソン・ウェルズ主演のシェイクスピア映画『マクベス』。
社史
黎明期「ポヴァティ・ロウ」も参照

1935年、長年映画や音楽に投資を行い、コンソリデイテッド・フィルム・インダストリーズを設立してその代表の座についてきたハーバート・J・イエーツは、6つのポヴァティ・ロウ映画のスタジオ連合としてリパブリック・ピクチャーズを立ち上げた。

1930年代の大恐慌の中、イエーツの会社は多くのポヴァティ・ロウのスタジオ相手に事業を行っていた。1935年、イエーツは、プロダクションの代表になるチャンスをつかんでいた。6つのスタジオ(モノグラム・ピクチャーズ、マスコット・ピクチャーズ、リバティ・フィルムズ、マジェスティック・フィルムズ、チェスターフィールド・モーション・ピクチャーズ、インヴィンシブル・ピクチャーズ)は全てイエーツの会社に借金があった。イエーツはこれら6つのスタジオに、イエーツ主導による映画事業の統合を持ちかけ、もし断ったら未払い金に対する抵当権を実行するとして同意を迫った。6つのスタジオは統合に同意し、かくしてリパブリック・ピクチャーズは低予算映画に特化した合弁企業として誕生した。

リパブリックの構成企業の中で最も規模が大きかったのはTrem CarrとW. Ray Johnstonの経営するモノグラム・ピクチャーズである。この企業はB級映画の制作に特化しており、きちんとした全米配給システムをもっていた。技術面で優れていたのはNat Levine率いるマスコット・ピクチャーズで、この企業は1920年代半ばから連続活劇ばかりを作ってきた。この企業はスタジオ・シティにある マック・セネット-キーストーンから受け継いだスタジオを所有しており、施設の面でも一流であった。また、リパブリックができた当時、マスコットはジーン・オートリーの才能を見出しており、自社作品にカウボーイ・スターとして出演してもらう契約を結んだ。ラリー・ダームールのマジェスティック・フィルムズは大物スターの出る映画を作り続けて発展してきた会社で、リパブリックからセットを借りて自社作品に彩りを添えた。リパブリックのロゴである『リバティ・ベル』(Liberty Bell)はM・H・ホフマンのリバティ・フィルムズ(フランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』をプロデュースした リバティ・フィルムズとは別の会社である。ただし、『素晴らしき哉、人生!』の版権は現在リパブリックにある)からきている。チェスターフィールド・モーション・ピクチャーズとインヴィンシブル・ピクチャーズの経営者は同じ人物で、この2つの姉妹会社は低予算のメロドラマやミステリ映画を作るのに長けていた。これら6つがリパブリック・ピクチャーズとして1つになったとき、リパブリックは経験を積んだスタッフ・B級映画の名わき役たち・将来を約束されたスター・完璧な配給システムそしてちゃんとした映画スタジオを持つ制作会社として、恵まれたスタートを切った。合弁企業の傘下に入る代わりに、6つのスタジオの代表者たちはリパブリックの庇護のもと、独立した活動を続け、映画の質を上げるために予算を増やした。

パートナーになった企業から映画製作と配給に関するコツを学んだイエーツは、だんだんパートナー企業に対して権威をふるうようになり、パートナー企業の間ではイエーツに対する不満が浮かび上がってきた。カーとジョンソンはリパブリックを去り、モノグラムで再び活動を開始し、ダームールはコロンビア ピクチャーズに移籍して独立した活動を続けた。Levineもリパブリックを去ったが、スタッフもスタジオも俳優もリパブリックとイエーツおよびリパブリックと契約していたため、失ったものを埋め合わせることはできなかった。パートナー企業が次々と去っていったイエーツのもとには、"自分の"映画スタジオと、自由な発想とテーマを持ったベテランの映画スタッフとしてではなくただ単に彼に従って来た古参の製作・配給スタッフだけが残った。

なお、リパブリックは カウボーイ歌手ジーン・オートリーとロイ・ロジャースの2人のレコードを出すためにen:Brunswick Recordsを買収し、サイ・フューアーを自身の音楽部門のトップに採用した[1]
映画ジャンルの変遷

初期のリパブリックはB級映画や連続活劇に特化していたため、ポヴァティ・ロウの一つに数えられることもあったが、この分野の作品に対する関心、投じる予算といった面では他の独立系はもちろん、大手の映画会社と比較しても劣ってはいなかった。リパブリックの主要製作物は西部劇で、ジョン・ウェインやジーン・オートリー、レックス・アレン、ロイ・ロジャースといった西部劇の俳優が有名スターといえる存在になったのもリパブリックにおいてであった。しかし1940年代に入ると、イエーツはより品質の高い映画を作るようになり、『静かなる男』、『大砂塵』、『硫黄島の砂』といった作品は大きな予算をかけてつくられたものである。

1947年、リパブリックはジーン・オートリー主演の映画『スー・シティ・スー』(Sioux City Sue)でアニメを使用した。この映画はうまくいき、リパブリックはちょっとアニメ映画をやってみようという気を起こした。同年、アニメーターのボブ・クランペットワーナー・ブラザースとトラブルを起こしてリパブリックに接近してきた。クランペットはウマのチャーリー・ホースを主人公にした単発のアニメ映画 It's a Grand Old Nagを監督したが、減益傾向の中、リパブリックの経営陣は打ち切りを決めた[2]。なお、その時のクランペットは"キルロイ"名義で監督業を行っていた。

1940年半ばから、イエーツはチェコスロバキア出身の元フィギュアスケート選手ヴェラ・ラルストンをたびたび主演に据えた。ラルストンはイエーツのハートをも射止め、1949年、イエーツの2番目の妻となった。リパブリックはソニア・ヘニーに対抗して、当初はラルストンをミュージカル映画に出演させていたが、イエーツは男性の大物スターの相手役として彼女をドラマ映画へ主演させることに決めた。イエーツに「映画の中で最も見栄えの良い女性」と見込まれたラルストンだったが、彼女の愛らしさは映画ファンには受け入れてもらえず、映画館側からラルストンの主演映画が多すぎるという意見がリパブリック側に寄せられた。いやいやながらラルストンと2回共演したジョン・ウェインは、3本目を撮らされそうになるともうその要求にこたえることができず、1952年にリパブリックを去った。イエーツはラルストンの一番のスポンサーになり、最後まで彼女が出る映画を作り続けた。

リパブリックは山間の田舎を舞台としたミュージカル映画や、コメディ映画を多く作り、その映画にはBob BurnsやWeaver Brothers、ジュディ・カノーヴァといった、全米各地で人気だった俳優が主演をつとめた[3]

製作費の増加に伴い、イエーツはリパブリックの作品全てを製作費別に4つのランクに分けた。Jubileeは、5万ドルほどの予算で、1週間かけて作った西部劇で、Anniversaryは17万5,000ドルから20万ドルの製作費で製作期間は2週間前後である。Deluxeは50万ドルほどの予算で、リパブリックのスタッフを動員した大型映画である。さらに、Premiereは普段リパブリックでは活動しない有名な監督を呼んで作らせたものであり、製作費も百万単位になる[4]。これらの作品の中には、独立系のスタジオが制作を担当し、リパブリックが配給を担当しただけのものもあった。

リパブリックの映画の大半は白黒映画だったが、『赤い子馬』(1949)や『静かなる男』(1952)といった莫大な予算をかけてつくられた映画は、テクニカラーが用いられていた。 1940年後半から1950年にかけてイエーツは『大砂塵』(1954)、『アラモの砦』(1955)、『楽聖ワグナー』(w:Magic Fire, 1956)で、トゥルーカラー(w:Trucolor)というシネカラーを用いて低予算のカラー映画を作った。

1956年、リパブリックは自社のワイドスクリーン映画製作システムナチュラマ(w:Naturama)を、『烙印なき男』で初めて用いた[5]
テレビ事業参入、そして映画部門閉鎖へ

リパブリックは、自社のフィルムライブラリをテレビ局に貸したハリウッドの映画スタジオとして知られている。1951年、リパブリックはテレビ部門ハリウッド・テレビジョン・サービスを設立し、自社の西部劇やアクションスリラー作品の上映権を売り出した。西部劇を含むこれらの映画作品は、1時間のテレビスペシャル枠に合わせるべく編集がなされた。この会社は昔の連続活劇のような手法でテレビドラマの制作も行っており、このようなドラマの代表作に『フー・マンチューの冒険』(1956)がある。また、1952年、リパブリックのスタジオがMCAの連続テレビドラマの制作部門レビュー・プロダクションズの本拠地になった。リパブリックが連続作品の制作に向いていることが証明されたものの、予算があったわけでもそうしようとした気持ちが強かったわけでもなかった。1950年代半ばまで、過去作品の上映・放送と、MCAへのスタジオの貸し出しがあったおかげで、リパブリックはテレビ業界でやっていくことができたのだった。このときリパブリックは連続映画として興行的に失敗した『宇宙戦士コディ』を全12話のテレビドラマとしてNBCに売った。タレント事務所であるMCAはスタジオで威光を放つようになり、MCAやMGMを追い出されたルイス・B・メイヤーがリパブリックのスタジオを完全にものにするのではないかと噂されていた。1953年から1954年にかけて、リパブリックはABCのテレビドラマw:The Pride of the Family(主演:パウル・ハルトマンフェイ・レイナタリー・ウッド)を製作し、 1955年にはジム・デイヴィスが主演とナレーションを務めた w:Stories of the Centuryを製作した。シンジゲート放送された"Stories of the Century"は、エミー賞を受賞した西部劇ドラマとなった。

B級映画の人気の低迷と、市場の縮小が起き始め、リパブリックは予算の削減を始めた。1950年代前半には年に40本ほど作られていた長編映画は、1957年には18本程度つくられただけだった。1958年の年次総会の際、イエーツは、株主たちに長編映画の製作を行わないことを発表した。翌年配給部門は閉鎖され、映画のライブラリは、ナショナル・テレフィルム・アソシエーツ(National Telefilm Associates, NTA)に売却された。スタジオはCBSが数年間番組制作に使用した後に買収、CBSスタジオセンター(CBS Studio Center)として知られるようになり、2006年このスタジオはCBSネットワークが所有するロサンゼルスの放送局KCBS-TVとKCAL-TVの本拠地になった。さらに2008年、CBSネットワークは西海岸の本部をハリウッド・テレビジョン・シティからラドフォードに移転し、ネットワークの重役が現在ここで執務している。

スタジオの親会社リパブリック・コーポレーションは、Consolidated Film Laboratoriesや家庭用品製造部門といったイエーツの他の事業とともに生き残った。


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