リバプール・アンド・マンチェスター鉄道
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リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開業記念列車

リバプール・アンド・マンチェスター鉄道(リバプール・アンド・マンチェスターてつどう、 L&MR: Liverpool and Manchester Railway)は、世界で最初の実用的な鉄道である。1830年開業。全ての列車時刻表に基づいて運行され、ほとんどの区間で蒸気機関車が牽引する都市間旅客輸送鉄道であった[1]。リバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、リヴァプールマンチェスターとその周囲の北西イングランドの町の工場を結んで、原料と製品をより高速に輸送できるように建設された。
歴史
建設まで

原料と製品の輸送を効率化するため、リヴァプール港と東ランカシャー間で計画された。膨大な量の織物原料がリヴァプール港を通じて輸入され、大量生産の拠点となっていたペナイン山脈近郊の工場へと輸送されていた。しかし18世紀から存在していたアーウェル川(River Irwell)やブリッジウォーター運河(Bridgewater Canal)の水運は、過剰な運賃によってマンチェスターの経済成長の妨げをしていると考えられていた(なお、後に鉄道についても同様の事態となり、逆に1890年代のマンチェスター運河(Manchester Ship Canal)の建設につながった)。寄付については路線の両端の都市から支援が寄せられたが、一方で通過することになる土地の所有者からは反対された。

もともとの発起人は、リヴァプールの裕福な穀物商人のジョセフ・サンダース(Joseph Sandars)と、マンチェスター最大の紡績工場の所有者であるジョン・ケネディ(John Kennedy)であると見られており、彼らはウィリアム・ジェームス(William James)の影響を受けたものとされる[2]。ジェームスは土地投機で財を成した土地鑑定人で、北イングランドにおいて炭鉱鉄道と機関車技術の発展を見て、全国規模の鉄道網を提唱していた。

1823年5月24日社長兼財務担当のヘンリー・ブース(Henry Booth)とリヴァプール、マンチェスターの商人たちによって鉄道会社が設立された。1825年議会に提出された会社に関する法案は否決されたが、翌年5月可決された。リヴァプールでは172人が1979株を、ロンドンでは96人が844株を、マンチェスターでは15人が124株を、他の地方の24人が286株を引き受けた。第2代スタッフォード侯爵ジョージ・ルーソン=ゴア(後の初代サザーランド公爵)が1人で1000株を引き受けて、合計で308人の株主が4233株を引き受けている。サンキー・ブルックを横断するスチーブンソンの高架橋

路線建設のための実地調査はウィリアム・ジェームスが行ったが、不法侵入によって行われた挙句に間違いの多いものであった。その上調査期間の間に破産したため、代わりとして1824年ジョージ・スチーブンソンが技師として任命された。しかし本人は学校教育を受けておらず、必要な計算なども十分にできない状況で多くの仕事を抱えていた。このため十分な教育を受けた息子のロバート・スチーブンソンにこの分野を任せ、ロバートが南アメリカへ行っていたこの時期には路線調査を部下に一任していた。1825年の議会への提案では、特にアーウェル橋(Irwel bridge)関連の事項について誤りが発覚し、法案は却下された。主な反対派は、G. H. ブラッドショー(G. H. Bradshaw)で、ブリッジウォーター運河も保有するスタッフォード侯爵のワースレイ(Worsley)の資産の管財人であった。

このような状況の中、失敗続きであったジョージ・スチーブンソンの代わりに、ジョージ・レニー(George Rennie)とジョン・レニー(John Rennie)が技師に指名された。そこで二人は路線調査担当にチャールズ・ブラッカー・ビグノールス(Charles Blacker Vignoles)を選んだ。これに加えて運河側の反対派に対する説得も試みた。侯爵の資産管財人の1人と親戚であった鉄道会社顧問のアダムの尽力と、個人的に公爵と知り合いであったウィリアム・ハスキソンの助けを得て侯爵との直接交渉に成功した。これにより鉄道建設に対する根強い反対は一転、侯爵自身の鉄道への出資という形で支援を得ることができた。

2回目の法案は1826年に国王の裁可を得た。1回目の法案に猛反発した人々の敷地を避け、今回は大きく異なる線形を採用した。その結果チャット・モス湿地帯(Chat Moss)を横断することになった。マンチェスター側の終点は、アーウェル川よりもサルフォード(Salford)側におく予定になっていたが、鉄道会社の建設するを水運側が荷車を運行するために利用する権利を与えることと引き換えに、水運側が最終的に川の横断を承諾したため、マンチェスター駅はカッスルフィールド(Castlefield)の中心部のリヴァプール通りに設置されることになった。
建設

レニーが要求した工期は受け入れられず、ジョージ・スチーブンソンが助手のジョセフ・ロック(Joseph Locke)を伴って再び技師に指名された。土木技術者としての過去の経験から、スチーブンソンはビグノールスに調査の続行を許さず、彼は辞任した。L. T. C. ロルト(L. T. C. Rolt)がスチーブンソンに関して書いた伝記によれば、取締役会の派閥がスチーブンソンにセカンド・オピニオンを求めていたことに関して、レニーが立腹していたという。ビグノールスが辞職したのは、彼がレニーに指名された技術者であるため、スチーブンソンの下で働き続けるのは軍出身の技術者として不名誉であると考えたためかもしれない。

35マイル(56km)にわたる線路建設は、当時の先端を行く技術によるものであった。リヴァプールの下を埠頭からエッジ・ヒル(Edge Hill, Merseyside)までつなぐ2,250ヤード(2,057m)のワッピングトンネル(Wapping Tunnel)に始まり、オリーブ・マウント(Olive Mount)の岩を最大70フィート(21.3m)掘り下げた4.75マイル(7.6km)におよぶ有名な切通しが続き、さらにサンキー・ブルック谷(Sankey Brook valley)に高さ70フィート(21.3m)で架かる、50フィート(15.2m)スパンの9連アーチ高架橋が続く。とくにチャット・モス湿地帯を4.75マイル(7.6km)に渡って横断するところは有名である。

本来湿地帯は鉄道を敷設するには不適な軟弱な地盤であり、改良のため水を抜くことも不可能であった。そこでスチーブンソンは膨大な数の木とヒースの束を作り、石と土を使って湿地帯に埋め始めた。1箇所に数週間かかる作業を地道に続け、ようやく堅固な土台を造ることができたと報告されている。今日でも、チャット・モス湿地を横断する列車はスチーブンソンの人夫が埋め込んだ束の上に乗って走っており、線路の脇に立てば列車の走行によって地面が揺れ動くのが分かる。現代では最初の蒸気機関車、ロケット号の25倍も重い列車を支えている。

路線上には全部で64の橋と高架橋があり、マンチェスターの終点にあるウォーター・ストリート橋(Water Street bridge)を除いて全て煉瓦積み及び石積みでできている。ウォーター・ストリート橋は後述の建築限界を確保しながら寸法を低く収めるため、鋳鉄ガーダー橋となっている。橋はウィリアム・フェアベアン(William Fairbairn)とイートン・ホジキンソン(Eaton Hodgkinson)により設計され、桁は現場から程近いアンコーツ(Ancoats)にある自身の工場で製造された。鋳鉄製のガーダー橋はその後も多くの路線で多用されることとなった。また設置前には十分な強度検証を行なった上で施工されたが、以後一部の鉄橋では崩壊を招くような重大な欠陥もあり、1847年ディー橋事故などへとつながった。

線路は魚腹形の1ヤードあたり35ポンド(17.3kg/m)の15フィート(4.6m)長レールを用いており、石のブロックの上か、チャット・モス湿地では木製枕木の上に敷かれていた。
ケーブル牽引か機関車牽引か

1829年の時点では、粘着運転の機関車に対する信頼性が十分に認められていなかった。一方でストックトン・アンド・ダーリントン鉄道での実績はよく知られており、ヘットン炭鉱鉄道(Hetton colliery railway)では一部区間がケーブル牽引に置き換えられていた。後者では蒸気機関車は試験されていなかったものの、ケーブル牽引による成功の実績は無視できないものであった。本鉄道においても、法案審議の際には蒸気機関車の使用についてあまり強調しないようにしていた。当然だが当時は蒸気機関車は知られておらず、絶えず煙を吐き出して走る機関車への世間からの反発を恐れた結果であった。さらに、時代の関心はゴールズワーシー・ガーニー(Goldsworthy Gurney)が実験していたような、蒸気自動車に向いていた。このため取締役会でも、スチーブンソンを含む機関車の推進派と、ケーブル牽引の推進派とで意見が分かれていた。後者の意見は、技師のジョン・アーペス・ラストリック(John Urpeth Rastrick)によって支持されていた。スチーブンソンが機関車の導入を訴えたのは、1箇所でも破損すると路線全体が運行不能になるというケーブル牽引の欠点を重く見た結果であった(ただしケーブル牽引は上記のように実用実績があったため、そちらについても反対という訳ではなかった)。

路線の断面勾配は、急勾配区間を3箇所(レインヒルの両側に100分の1(10パーミル)、リバプールの埠頭へ向かう下りに50分の1(20パーミル))に集めて、それ以外の区間は極めて平坦なおよそ2000分の1(0.5パーミル)に抑えるように設計されていた。機関車を使うべきかどうか、どの機関車が適当であるかを決定するために、会社はレインヒル・トライアルを実施、結果スチーブンソン父子が製作した蒸気機関車ロケット号が採用された。最終的に路線が開通した時には、エッジ・ヒルからクラウン・ストリート駅(Crown Street railway station)へ向かう最後の旅客輸送区間については、ワッピングトンネルの下り勾配のためにケーブル牽引にされた。
複線

路線は標準軌複線で建設された。予想された輸送量は単線では実現できないことに加え、電信が実用化される以前であったので、単線の線路に複数の列車を運行させるのは現実的でないと考えられたためである。

また複線間隔は軌間と同じにすることとした。これは、合計4本のレールのうち中央の2本を使って列車を走らせることで、車両限界を超えた大型の貨物を輸送できるようにしようと考えたためである。しかし線路の間隔の狭さに車体幅も制約を受ける結果となり、後に間隔が広げられた。なお狭い車体幅のため、客車の狭苦しさの結果後述の最初の鉄道事故の原因ともなり、また対向する線路に列車を走らせながらの保線作業も非常に危険なものであった。


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