リバタリア
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リバタリアが存在したと考えられるアンツィラナナ (Antsiranana) とその周辺の地図。

リバタリア(Libertalia)とは、キャプテン・チャールズ・ジョンソンによる海賊の伝記集『海賊史』の第二巻に登場する海賊のユートピアのことである。

リバタリアは18世紀フランス人の海賊ミッソンと修道士のカラチオーリによってマダガスカル島に建設された。当時の一般的な通念である奴隷制や専制主義などを否定し自由や平等、民主主義などの価値観を重視していた。

リバタリアのモットーは「神と自由のために」であり、ジョリー・ロジャーとは対照的な白い旗を使用していた[1]。また、住人達は既存の人種区分を嫌悪し自らをリベリと称した。最終的にリバタリアは彼らを恐れたマダガスカルの先住民達により破壊されたという。

リバタリアについて記された史料は『海賊史』以外に存在せず、現代の研究者はリバタリアおよび創設者のミッソンは、ジョンソンによる創作だと考えている[2][3]
歴史
前史ミッソンの想像図 (1933年)

ミッソンはフランスのプロヴァンス地方出身で、幼少期から古典、論理学、数学などの分野で能力を発揮、進学したアカデミーでは軍事を学んだ[4]

卒業後銃士隊に入れたがる父親を説得して10代の頃に海軍に入隊、戦艦ヴィクトワールに配属される[4]。任務中は航海術や造船などを熱心に学んだ[4]

ローマに旅行で立ち寄った際にドミニコ派の修道士シニョール・カラチオーリと出会い2人は意気投合[5]。ヴィクトワール号にカラチオーリが乗り込むことになった。

その後、ミッソンは私掠船トライアンフに乗り込んでイギリスの商船を捕獲しヴィクトワールに合流してから西インド諸島に向かった[6]。航海中ミッソンはカラチオーリから思想的に多大な影響を受けた[6]

マルティニーク島沖ではイギリス軍艦ウィンチェスターに遭遇しこれと交戦、ヴィクトワールの船長が死亡したためミッソンが代わって指揮を取った[7]。戦後カラチオーリはマルティニーク島に行って船を手放すより自由のためにヨーロッパ諸国と戦うべきだとミッソンに助言した[8]

カラチオーリに説得されたミッソンはヴィクトワールの乗組員を集めてスピーチを行い支持を受けて船長に就任した[9]。ヴィクトワールの乗組員たちは新たなルールや旗を制定する必要があった[10]。1人が旗のデザインに黒旗を提案したところ、カラチオーリが自分たちは自由のために戦うのであって、海賊とは異なる存在であるから白地に 「神と自由のために」 と刺繍された旗を掲げるように提案した[11]

旗のデザインが決定し亡くなった船長と船員の持ち物整理が始まった。整理中にミッソンが財産というのは本来共有されるべきもので、所有は人々を正しくない方向に導くと宣言したことで、回収された遺物は鍵付きの箱に入れられ、共有されることになった[12]
設立

アフリカ沿岸に向かったミッソンたちは黒人奴隷を輸送するオランダ船と遭遇してこれを捕獲した。オランダ船で奴隷を目の当たりにしたミッソンはヴィクトワールの船員に対して宗教や人種が異なるだけで人間は皆平等であると説き、自身は奴隷制度には加担しないと宣言した[13]

ジョハンナ島に辿り着いたミッソンは隣島の国モヒラとの戦争に介入した。また、ミッソンとカラチオーリはジョハンナ島の女と結婚して島にアジトを設けた。

ミッソンはマダガスカルのアンツィラナナの北にある湾から入って約10リーグ進んだところの左岸に港を見つけて上陸した[14]。港の調査を終えたミッソンは、労働に耐えられなくなった人が住める居住地をこの地に建設すると決めた[15]。計画を聞いた乗組員はミッソンを支持、ジョハンナ島からも人手を集めて居住地の建設を始めた[15]

ミッソンはこの土地をリバタリア、その住人をリベリと名付けた[16]。彼はリバタリアの人々に、過去の出身国によるものではなく、リバタリア独自のデモニムを与えたかった[17]:417。
出会い左:トマス・テュー (ハワード・パイルによる想像図、1894年作)

マダガスカル近海で海賊トマス・テューに出会ったミッソンはヴィクトワールで彼をもてなすこととなった[18]。テューは船で聞いたミッソンの話に感銘を受けて船員にリバタリアに向かうように話した[19]

ミッソンはチャイルドフッドとリバティーの2隻を新たに建造してマダガスカル島の地図作りや解放した奴隷の訓練航海に使用した[20]。4ヶ月後ミッソンとテューは2隻をそれぞれが指揮してフィーリクス沖にて巡礼に向かうムガル帝国の船を襲撃し無傷のまま船を制圧することに成功する[21]

議論の結果、捕らえた女、財宝、船をリバタリアに持って帰ることに決定、船に積み込まれていた大砲はリバタリアの砦に設置され防衛力の向上に役立った[22]

ある日、5隻のポルトガル軍艦がリバタリアを襲撃した。ポルトガル船は砦の攻撃で2隻が沈没し、残りは敗走したがミッソンが出した追撃部隊によって1隻が拿捕された[23]

後日このポルトガルとリバタリアの戦いはポルトガルの新聞リスボン・ガゼット誌に掲載された[24]。イギリスではこの新聞記事に登場する海賊が当時マダガスカルに自分の王国を築いていると噂されていたヘンリー・エイヴリーのことだと勘違いされた[24][25]

ミッソンとテューの乗組員の間で争いが起こったことで法律と政府を作ることになった[26]。議論の結果、10人ずつに区切られたグループの中から1名の代表を選出して、その人間たちが法律を制定するという民主的な仕組みが出来上がった[27]

ミッソンは3年間の任期付きでリバタリアの大統領に相当する護民長官に選任され、カラチオーリは国務大臣、トマス・テューは海軍提督に就任した[20]
最期

テューはリバタリアの国民を増やすため昔の海賊仲間を探す旅に出た。テューは仲間が住む島に上陸してリバタリアに来るように持ち掛けたが断られ船に戻った[28]。しかし、嵐の影響で島から出航することが出来ずテューは再び島に上陸、ヴィクトワールは嵐によって彼の部下と共に沈んでしまった[29]。1ヶ月後、2隻のスループを率いたミッソンが島に姿を表し2人は再会を喜びあった[29]

ミッソンはテューにリバタリアがマダガスカル先住民に襲撃され、自身とカラチオーリも兵士に加勢し防衛に当たったが、敗北して住民が虐殺され、カラチオーリもその戦いで亡くなったため、自身は財宝を積んだスループで逃げてきたことを話した[29]。ミッソンはヨーロッパにいる家族の元に帰るつもりだったが、テューはアメリカで財宝を換金することを勧めた[29]

スループ2隻の1隻にミッソンと仲間たちが、もう1隻にテューとその仲間が乗り込んだ。2人はギニア沿岸に向かったビジュー (ヴィクトワールの僚船) を追って航海を続けたが、インファンテス岬近海でミッソンが乗る船がハリケーンに襲われて彼はそこで命を落とした[30]

テューの船は嵐を避けて無事アメリカにたどり着いた。テューは財宝を換金して、しばらくは平和に暮らしていたが、昔の仲間から再び海賊のリーダーとして自分たちを率いてほしいと懇願され渋々これを承諾した[30]。テューの海賊たちは紅海に行きムガル帝国の船を襲ったが反撃を受けてテューは命を落とした[30]

ジョンソンによればミッソンは自分の人生をフランス語の手記に書き記していたという[31]。手記は生き残ったミッソンの部下が持っていたが、最終的にはジョンソンの手に渡って海賊史のミッソンに関する記述の情報源になった[32]


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