リトル・トーキョー
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小田和正のシングルについては「Little Tokyo」を、その他の用法については「リトル・トーキョー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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Little Tokyo Historic District
アメリカ合衆国国家歴史登録財
アメリカ合衆国国定歴史建造物地区


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所在地 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度03分04秒 西経118度14分20秒 / 北緯34.051度 西経118.239度 / 34.051; -118.239
建築家エドガー・クライン(Edgar Cline)他
NRHP登録番号86001479[1][2]
指定・解除日
NRHP指定日1986年8月22日
NHLD指定日1995年6月12日[3]

リトル・トーキョー(: Little Tokyo)は、ロサンゼルスダウンタウン内にあるアメリカ最大の日本人街通称である。「Lil' Tokyo」、「小東京」などとも呼ばれている。転じて、日本国外にある日本人街全般のことを指すこともある。

リトルトーキョーの東端、全米日系人博物館そばの外壁には「ロサンゼルスの小東京は、我々の心の故郷です」と書かれた壁画が描かれている。
年表「アラメダ・ストリート」(1918年)

1884年 日本から北米大陸への移住が始まる。

1885年 日本人漁民チャールズ・カメこと茂田浜之助がロサンゼルスダウンタウン地区1番街340番地に日本食店カメ・レストランを開店。それ以降、25世帯の日系人が居住、日系児童のための学校も設立され、これがリトルトーキョー発祥の基礎となった(1945年からギフトショップ「文化堂」がこの住所で営業)。

1888年 日系移民のほとんどがキリスト教に改宗したためYMCAが設立された[要出典]。当時の日系移民たちは、衣食の援助や英語が学べるといった実利的理由から便宜的に教会に属する者も少なくなかった[4]

1896年 7月に金井商店という日本食糧雑貨店が北メイン425番地に開業。これが南カリフォルニアにおける日本食料品販売店の元祖。

1899年 クラブ・バー「Little Pedro's」がオープン(現在も営業中。小東京最古の飲食店)。[要出典]

1903年 南カリフォルニア大学の学生だった山口正治、渋谷清次郎、飯島榮太郎ら3人が日系最初の新聞メディア「羅府新報」をこの地で創刊。初期ガリ版刷り、11月活字になる。和菓子店「風月堂」が開店。

1905年 「リトルトーキョー」、「小東京」という名称が一般的になる。

1906年 サンフランシスコで大地震、北カリフォルニアに住んでいた日系人数千人がリトルトーキョーに移住。初の寿司屋[5]、初の日系人経営の映画館「The International」がオープン。アズサ通りにあるキリスト教会で現在のペンテコステ派の土台となる集会が持たれるようになり、全米の注目を集める。このころの急激な日本人増加からロサンゼルスでの排日ムードが高まる[6]

1907年 小東京の人口が3万人を超える。

1908年 小東京の日系人の店舗が40カ所以上に。ほとんどの日系人が農家を経営していたため、翌年に青果市場を設立。

1910年 橋本錬三郎が三河屋をオープン(2021年6月29日閉店)。

1911年 『北米踏査大観』によると、リトルトーキョー界隈に日本人経営の店は100以上あり、飲食店、洋服店、薬屋、本屋などから魚市場・野菜市場、風呂屋に至るまであった。また、5つのキリスト教系団体(信者約250名)と2つの仏教団体(約700名)があった[7]

1913年 早川雪洲がこの地で演劇活動を始める。

1916年 賭博場ヤマトクラブ開店。

1920年 柔道道場が完成。

1922年 羅府日米新聞創刊。

1923年 日系人のための教会ユニオン・チャーチが完成(現在は芸術系非営利団体が利用している)。

1924年 日露戦争で日本が勝利した頃から起こりつつあった日本人排斥の流れの中、政府が排日移民法を制定。日本からの移民を禁止した。

1925年 中華料理店「Chop Suey(チャプスイ)」が開店。チャップリン等の映画スターが数多く常連に。

1931年 加州毎日新聞が11月5日に創刊。翌年、画家の竹久夢二がエッセイ「南加感傷」を短期連載(毎日新聞とは無関係。1990年代に廃刊)。

1934年 日系アメリカ人の若者達が「二世ウィーク祭り」(Nisei Week、世界最大の日系人の祭り)を提唱、開催。翌年、「エンブンマーケット」がオープン。

1937年 産業日報新聞創刊。
強制収容される日系人(1942年)

1938年 この頃より松乃寿司(松の寿司)が開店[8][9](戦後、1949年までには再開している[10][11] )。

1941年 中央日本人会は、仲村権五郎会長と「羅府新報」英文編集長の田中董梧(英語版)の両名を首都ワシントンD.C.に送り、多くの要人や政治家達に面接を求めて日系人の窮状を訴えた。同年12月に日米間で開戦。

1942年 大統領令9066号が発令され、西海岸一帯に住む全日系アメリカ人が収容所に強制入所させられる。リトル東京から日系人の姿は消え、ゴーストタウン、スラム化したとされる。この頃から黒人の居住者が増加。「コブラ・クラブ」等、黒人ジャズクラブが20店舗以上開店し、当時無名のチャーリー・パーカー等が演奏。

1943年 6月中旬、「ズートスーツ暴動」(en:Zoot Suit Riots)と呼ばれる兵隊同士の人種間闘争がダウンタウン地区で勃発。近隣のリトルトーキョーにまで飛び火。10月、黒人ビジネスマンらがリトルトーキョーの名称を「ブロンズヴィル(Bronzeville)」に改称。しかしその名称は3年しか続かなかった。

1945年 第二次世界大戦の終結に伴い、この年の暮れまでに強制連行された112,000人の内、25,000人がリトルトーキョー、あるいはその周辺地区に戻る。

1947年 9月に羅府日系人協会が設立。

1949年 1月に羅府日系人協会と小東京実業組合が合併、財団法人南加日本人商業会議所としてカリフォルニア州政府に認定される。「二世ウィーク」が復活。

1950年代 日本の映画会社が相次いでこの周辺に映画館をオープン。邦画専門館だけで5館あったといわれる。東映映画専門館「リンダ・リー劇場」等が有名。

1952年 南加日本人商業会議所が現在の南加日系商工会議所に名称変更。

1960年代 創価学会を始めとする日本の宗教団体が小東京に拠点を置き始める。

1960年 日米修好100年記念で訪米中の皇太子明仁親王美智子妃が来訪。

1961年 商工会議所が「リトルトーキョーを守れ」と区画整理保護を政府に提唱。

1964年頃 「かわふく」が米国初といわれる本格的寿司バーを開設(職人が握った寿司)[12][13][14][15]

1970年代 日系のビジネスセンターとして再開発が開始される。
ウェラーコートヤオハン

1976年 広い住居を求めて多くのアーティストがリトルトーキョーに移住し始める。これが後のアート・ディストリクト(芸術地区)指定の基礎となる。

1977年 「ニューオータニ・ホテル・アンド・ガーデン」開業。

1978年 「ジャパニーズ・ヴィレッジ・プラザ」が完成。

1979年 非営利法人「リトルトーキョー・サービスセンター」が設立。

1980年 「ウェラーコート」完成。日米文化会館完成。

1983年 「日米劇場」完成。

1984年 無料紙「日刊サン」が創刊。

1985年ヤオハン」及び「ヤオハン・プラザ」がオープン。

1986年 一番街がロサンゼルスの史跡に指定される。日系宇宙飛行士エリソン鬼塚が搭乗したスペースシャトル・チャレンジャー号が発射直後に爆発、乗員7名全員死亡。鬼塚の功績を記念して、小東京内に鬼塚ストリート及び記念碑を建立。

1987年 レーガン大統領政権下のアメリカ政府が第二次世界大戦中の日系人収容に関して公式謝罪。慰謝料として一人2万ドルが支給される。

1989年 無料紙「OSAGAWASE」(後に「Lighthouse USA」に名称変更)が創刊。無料日系紙が相次いで創刊される。このため、有料紙が経営難に陥る。

1990年代 日本からの旅行者で賑わうが、バブル景気が終焉期に入り、その数は激減。この頃、新規の店舗経営者には韓国人中国人が目立ち、空き店舗や得体の知れない店舗が目につくなど、日本人・日系人の間では「リトルトーキョーは終わった」とも囁かれ、90年代は小東京にとって冬の時代ともいわれた。

1991年 北米で唯一の日本映画専門館「Little Tokyo Shochiku Cinemas」が閉館。北米初のしゃぶしゃぶ専門店がこの地にオープン。

1992年 全米日系人博物館が開館。

1994年 住宅地としての再開発が開始される。

1995年 野茂英雄ロサンゼルス・ドジャースと契約、小東京も野茂特需に湧く。小東京が歴史地区に指定される。

1996年 小東京に交番を設立。

1998年 全米日系人博物館新館がオープン。

1999年 南加日系レストラン協会(JRA)が発足。

2000年 「Mitsuwa」が経営破綻した「ヤオハン」を買収。

2001年 旅行者の激減に伴い、小東京の宣伝活動を強化。10万枚のパンフを空港・ホテルに配布。

2003年 治安悪化対策にロサンゼルス市が動き出す。

2005年 羅府新報が本社ビルを売却。


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