リトビネンコ事件
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リトビネンコ事件
場所
ロンドン
日付2006年11月1日
標的アレクサンドル・リトビネンコ
攻撃手段ポロニウム210を用いての毒殺
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リトビネンコ事件(リトビネンコじけん)は、ロシア連邦保安庁(FSB)およびKGBの元職員であったアレクサンドル・リトビネンコが、2006年11月1日に亡命先のイギリス・ロンドンで放射性物質ポロニウム210を盛られ、約3週間後の11月23日に急性放射線症候群で死亡した事件[1][2]欧州人権裁判所は2021年9月、リトビネンコの毒殺が合理的な疑いの余地なくアンドレイ・ルゴボイ(英語版)とドミトリー・コフトン(英語版)の両名によって実行され、またロシアによる国家的関与の明白な証拠が存在するとの判断を示し、ロシア政府に対してリトビネンコの未亡人に賠償金を支払うよう命じた[3][4]
背景詳細は「アレクサンドル・リトビネンコ」を参照

アレクサンドル・リトビネンコは1988年から1999年にかけてKGBおよび後継組織のロシア連邦保安庁(FSB)の職員を務めたが、1998年に有力なオリガルヒであるボリス・ベレゾフスキーの暗殺を指示されたことを公表し、それ以降ロシア当局から迫害を受けたため、2000年にイギリスに亡命し、2006年にはイギリス国籍を取得していたとされる[5]。亡命後のリトビネンコは共著した『Blowing up Russia: Terror from Within』の中で、FSBが1999年のロシア高層アパート連続爆破事件をはじめとするテロを自作自演で引き起こすことで、ロシアによるチェチェンへの侵攻を正当化し、ウラジーミル・プーチンを権力の座に押し上げたと主張した[6][7]。リトビネンコはまた、ロシアの諜報機関はチェチェン人の協力者を通じて2002年のモスクワ劇場占拠事件を工作しており、それ以前にも1999年のアルメニア議会銃撃事件を仕組んでいたと主張しており[8]、テロリストのアイマン・ザワーヒリーは1997年にロシアを訪問した時点でFSBの支配下にあったと述べていた[9]

リトヴィネンコはロンドンで、同じくイギリスに亡命中であり、反ロシア政府運動をメディアで展開するベレゾフスキーへの支援を続けており[10]、ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤが2006年10月7日に殺害された後には彼女の暗殺を指令したとしてプーチンを糾弾していた[11]
経緯

2006年11月1日の夜、リトビネンコは突如として嘔吐や血の混じった下痢などの症状に苦しみ始めた[12][13]。体調が悪化する数時間前、リトビネンコはロンドンのミレニアム・ホテル内の「パイン・バー」で友人の元KGB職員アンドレイ・ルゴボイ(英語版)およびドミトリー・コフトン(英語版)と会っており、その際に緑茶を口にしていた[14][13][15][16]。また、それ以前にはロンドン・ピカデリー寿司レストラン「itsu(英語版)」でイタリア人の研究者マリオ・スカラメッラ(英語版)と昼食をともにしており、その際にスカメッラからアンナ・ポリトコフスカヤの死の真相に関する文書を受け取ったとされている[17]。次第に痛みは激しさを増したため、リトビネンコは妻に救急車を呼ぶよう頼み[18]、2006年11月3日に入院した[12]
毒物の特定

2006年11月3日、リトビネンコは「エドウィン・カーター」の偽名で北ロンドンのバーネット病院に入院した。当初は胃腸炎と診断され、抗生物質による治療を受けた[19][12][20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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