リトアニア臨時政府
[Wikipedia|▼Menu]
臨時政府の閣議の様子[1] (中央)アンブラゼヴィチュス首相代行兼教育相
(左端から)マトゥリョニス財相、センクス情報局長、ヴィトクス農相、ヴァイナウスカス商務相兼監査院長、ランズベルギス=ジェムカルニス共同経済相、ヴェンツュス保健相、グルジンスカス食料局長
(右端から)シュレペティース内相、ラシュティキス国防相、ダムシス工務相、パヤウイス労働社会保障相、ノヴィツキス運輸通信相、プラプオレニスLAF全権代表、マツケヴィチュス法相

リトアニア臨時政府(リトアニア語: Lietuvos laikinoji Vyriausyb?、略称: LLV)は、1941年ソビエト連邦による占領期からナチス・ドイツによる占領初期の数週間にかけて存在した、リトアニアの独立を目指して活動した臨時政府である。1941年4月22日に秘密裏に結成され、6月23日に宣言[2]8月5日に活動を停止した[2][3][4][5]

カウナスヴィリニュスのリトアニア人行動主義戦線(リトアニア語版) (LAF) のメンバーも臨時政府に加わった。
歴史臨時政府で首相代行兼教育相を務めたユオザス・アンブラゼヴィチュス(リトアニア語版) アンブラゼヴィチュスは戦後米国に移住し、ブラザイティス (Brazaitis) と姓を変えた[6]カウナス無線局(リトアニア語版)が入居していたカウナスの建物の銘板 1941年6月23日に臨時政府がラジオを通じて独立回復を宣言したことが刻まれている。臨時政府はこのとき、ユダヤ人のリトアニアからの排除も同時に宣言していた[7][8]

1941年6月22日、ナチス・ドイツがソ連への侵攻を開始(バルバロッサ作戦)。これと同時にリトアニア全土でソビエト体制に対する蜂起が起きた(六月蜂起(リトアニア語版))[9]。この蜂起で中心的役割を果たしたリトアニア人行動主義戦線(リトアニア語版) (LAF) のレオナス・プラプオレニス(リトアニア語版)が、6月23日にリトアニア臨時政府の樹立とリトアニアの独立回復をカウナス無線局(リトアニア語版)からラジオを通じて宣言した[8][2]

臨時政府の首相に就任するとされていたLAFの指導者カジース・シュキルパ(リトアニア語版)元駐独公使は、同日、リトアニア臨時政府による独立宣言を承認するようドイツ外務省に要請した[8]。また、シュキルパは、六月蜂起により「ソヴェト体制を排除したことで、ドイツ軍の勇敢な進軍が可能となりました」と記した書簡をヒトラーに宛てており、ドイツに対する貢献の見返りに独立を承認するよう求めた[8]。しかしドイツ当局は、臨時政府の樹立については一旦認めつつも、リトアニアの独立回復までは承認せず、独立運動を阻止するためにシュキルパをベルリンの自宅に軟禁した[1][2][7][10]。もう一人の首相候補であったラポラス・スキピティス(リトアニア語版)も当時ベルリンにいて、ベルリンを離れることは許されていなかった。そのため、臨時政府教育相のユオザス・アンブラゼヴィチュス(リトアニア語版)が首相代行を務めることとなった[2][7][10][1]。アンブラゼヴィチュスを含め、臨時政府の閣僚の多くはキリスト教民主派が占めていた[10][11]。臨時政府発足後は党派間の争いが深刻化した[12]

臨時政府における人材不足は深刻で、例えば元国防相のヴィータウタス・ブルヴィチュス(リトアニア語版)は6月2日にソ連軍に逮捕されており、国防相には代わりにスタシース・ラシュティキス(リトアニア語版)将軍が就いた。1941年6月21日(ドイツ軍侵攻開始の前日)、臨時政府のメンバーがソビエトの当局に逮捕された。逮捕されたのは、ヴラダス・ナセヴィチュス、ヴィータウタス・スタトクス、ヨナス・マシリューナス(リトアニア語版)で、彼らはモスクワの刑務所に収容された。彼らに対する裁判は11月26日に行われ(当時のリトアニアはまだナチス・ドイツ占領下)、28日に刑が言い渡された。ブルヴィチュスは死刑、マシリューナス、ナセヴィチュス、スタトクスはシベリア送りとされた。

臨時政府は、ソ連占領前に施行されていたリトアニアの法律を復活させることを決議[10]。また、司法制度も占領以前のものに戻された[10]。そして、財産の私有も再び認められるようになり、土地や家屋、資産、企業などが本来の所有者に返還されたが、ユダヤ人や「リトアニア民族の利益に反する行為に活発に関わった」者はその対象外とされた[13]

軍事組織を必要としていた臨時政府は、6月28日に各地のリトアニア人軍事組織を武装解除し、翌29日に民族防衛労働大隊(リトアニア語版) (TDA) を組織した[14]。TDAを管轄するカウナス軍司令官にはユルギス・ボベリス(リトアニア語版)大佐を任命した[15]。TDAはのちに補助警察大隊(PPT)と改称されるが、このTDAおよびPPTは、リトアニア各地でユダヤ人殺害を行ったことでも知られている[15][14]。ボベリスは臨時政府に対してユダヤ人強制収容所の設置を求め、臨時政府は6月30日、閣議でこれを了承した[15][14]。8月1日、臨時政府は、ユダヤ人をゲットーに収容する際の規則(「ユダヤ人地位規則」)などを閣議決定した[16][14]。その前文では次のように記されていた。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}内閣は、ユダヤ人が、数世紀にわたってリトアニア民族を経済的に搾取し、道徳的に破滅させ、また近年では、ボリシェヴィズムの外套に身を包んでリトアニアの独立とリトアニア民族に対する戦いを広く展開したことを考慮し、そしてユダヤ人のこの破壊的活動の行く手を遮り、彼らの有害な影響からリトアニア民族を保護することを目指して、以下の諸規則を制定する旨を決定した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:68 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef