リトアニアの歴史
リトアニアの歴史(リトアニアのれきし)では、リトアニアの歴史を述べる。また同時にリトアニア人の歴史も記述する。
「リトアニア」という語は、1009年に「Lituae」(ラテン語の属格、主格は「Litua」)と記載されたのが最も古いものである[1][2]。13世紀にはリトアニア大公国が建てられ、その後、リトアニアは周辺諸国を征服、15世紀には、リトアニア大公国はヨーロッパで最大の領土をもつ国となった[3]。16世紀にはルブリン合同によりポーランド王国と合同、ポーランド・リトアニア共和国となった。その後、18世紀末のポーランド分割によりリトアニアはロシア帝国の支配下におかれることとなる。第一次世界大戦後の1918年にリトアニアは共和国として独立。しかし第二次世界大戦中にソビエト連邦やナチス・ドイツからの侵攻を受け、リトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入される。1990年代に入るとリトアニアは独立を回復、2004年には欧州連合にも加盟した。 リトアニア人は、バルト人(バルト語派)の子孫で[4]、ドイツ騎士団を初めとする北方十字軍との抗争の中で団結していった。13世紀にキリスト教化を目論むドイツ騎士団に一時征服されたが、1236年の戦いで彼らの進出を食い止め、ミンダウガスのもと最初の統一を成し遂げリトアニア大公国を成立させた。ミンダウガスの勢力圏は、1240年代半ばには西はジェマイティヤ、東はミンスク、南は黒ルーシまで達していた[5]。ミンダウガスは1253年、リトアニアの王となった[5]。しかし、ミンダウガスが権力を拡大したことは、親族間の争いを招いてしまった[5]。 14世紀、ゲディミナスは東欧に勢力を伸ばし、現在のベラルーシ・ウクライナ一帯まで拡大していった。また、ヴィリニュスを建設し首都とした。 その後ドイツ騎士団との抗争は続き、リトアニア大公国が異教徒の国でありながら伝統的にリトアニア大公国と関係が良かったキリスト教国家で、ポメラニア平定のさいにドイツ騎士団が起こした金銭トラブルでドイツ騎士団と揉めていたポーランド王国へ接近して行った。 1386年にリトアニア大公ヨガイラは、ポーランド王国の女王ヤドヴィガと結婚、ローマ・カトリックに改宗すると同時にポーランド王に迎えられた(ポーランド・リトアニア連合)。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}リトアニア大公国は、初期はポーランド王国と連合国家(同君連合)として対等な地位を築いた[要出典]。1410年、リトアニア大公国はポーランドと連合してドイツ騎士団をグルンヴァルトの戦いで破った[6]。司令官ヴィータウタスは名声を得た[7]。両国は、東欧の大国として君臨した。しかし、リトアニア人貴族は次々と母語をリトアニア語やベラルーシ語から自発的にポーランド語に変えてポーランド社会へと同化していった。16世紀半ばに開始されたモスクワ大公国・ロシア・ツァーリ国とのリヴォニア戦争において、リトアニアはポーランドとのルブリン合同を成立させた[8]。しかし、これは対等な合同とされたものの、実際はポーランドが支配的で、リトアニアはポーランドの一つの州とされた[8]。当時のポーランドはポズナンを首都とする大ポーランド
リトアニア大公国
ポーランドとの連合詳細は「ポーランド・リトアニア共和国」を参照
その後「共和国」の強大化に危機感を抱いた周辺国により「共和国」は弱体化し、リトアニアは18世紀初頭の大北方戦争によって、一時スウェーデンの支配下に置かれたが、スウェーデンの敗北により、再び「共和国」の支配下に戻った。しかし、「共和国」の衰弱は、近隣諸国の介入を招き、ロシア帝国やプロイセン王国の影響力が高まり、1772年の第一次ポーランド分割の後、リトアニアもその分割の脅威にさらされる事となった。[要出典] 1772年、第一次ポーランド分割により、ポーランド・リトアニアは領土の3分の1を失った[9]。国家の危機に直面した改革派の貴族は、中央集権化ならびに近代化を進めて統治システムを強化しようとした[9]。この改革の一環として国民教育委員会の創設も行われたが、これは世界で最初の教育省(文部省)とも言えるものであった[9]。しかし1793年、第二次ポーランド分割が実行される[10]。これによりリトアニアは、ミンスク県の全域とヴィリニュス県、ノヴォグルドク県ならびにブレスト県の東部地域を失った[10]。1795年の第三次ポーランド分割によりポーランド・リトアニア共和国は消滅し、現在のリトアニア領にあたる地域の大部分はロシア帝国に組み込まれた[11]。 一時ナポレオン1世率いるフランス帝国軍に占領される。ナポレオンの敗退後、再びロシアに編入され、ロシア同化政策を受ける。 19世紀になると民族主義が高まり、「ポーランド共和国」の復活を目指してポーランド人とともに2回蜂起するが鎮圧される。蜂起に対してロシア・ツァーリは、リトアニア人はロシア人であると宣言し、リトアニアにおけるポーランド文化の根絶政策を実施し、ポーランド語は禁止され、ロシア語が強制された[12]。 日露戦争によって引き起こされた1905年のロシア第一革命の際にはリトアニアは自治権を要求した。 第一次世界大戦が始まると、リトアニア人が住む地域は1915年にドイツ帝国に占領された。この頃、マルティーナス・イーチャス
ロシア帝国時代
第一次世界大戦とロシア革命
1917年9月18日から22日にかけて[注釈 1]、222人のリトアニア人がヴィリニュスに集結した(ヴィリニュス会議(リトアニア語版))[17]。